【WBC】侍ジャパン2009
中島裕之「清原が後継者と認めた男」

  • 石塚隆●取材・文 text by Ishizuka Takashi
  • photo byTaguchi Yukihito

国際舞台でも動じない人並み外れた勝負度胸

「ホンマ、願い事を実現できる、あんな運のええ子もおるんやねえ」

 こう懐かしむように語るのは、中島の恩師である伊丹北高校の元野球部監督、後藤博雄氏だ。現在は伊丹北を離れ他校に移っているが、今でも中島が地元に戻れば面会し、ゴルフなどをする間柄だ。教え子の活躍が余程うれしいのか、羽織っているフリースの胸には、ライオンズのネームが入っており、手首にはWBCの腕時計が巻かれていた。

 しかしなぜ、無名の公立高校出身の中島が、日本を代表するような存在になることができたのか?

「なんでやろねえ。昔からあんな顔して、熱いっちゅうか、相手が強いほど燃えるタイプやったね。甲子園常連の強豪校と対戦してもカンカン打ちよる。インコース攻めてくるから気をつけえ言うても『大丈夫です。やられたらやり返しますから』と。まあ、勝負度胸が人並み以上ていうか、だから大舞台の国際大会に向いとるんやろね」

 高校時代から長打力には定評があった。リストが柔らかく右方向への打球も器用に飛ばしていた。当然、西武のスカウトはそこを評価したが、後藤氏は他にも要因があったという。

「練習が終わると、3年生なのに、みんなと一緒になってグラウンド整備をやる。そんな中島の驕(おご)るところのない人柄を見て、スカウトさんは『こういう子なら大丈夫だ』って言うてくれたんですよ」

 謙虚さと調和。その姿勢があるからこそ、今の中島があるのだろう。一昨年(注・2007年)までは失策王だった守備も、懸命に練習を重ね、昨年(注・2008年)はゴールデングラブ賞を獲得するまでに成長。もともと定評のあった打撃も同様に、今や日本一のチームの3番を任され、ジャパンでは2番という難しい役どころも黙々とこなした。その傍(かたわ)ら、緊張感や悲壮感が漂う中でも、常に笑顔を絶やさず溌剌(はつらつ)とし、チームのムードを盛り上げていた。勝気な優しき男からは、若いながらすでに頼りになる雰囲気が溢れていた。

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