【プロ野球】高津臣吾「野村監督、古田さんがいなかったら、今の自分はない」 (3ページ目)

  • 大田誠(テレビ朝日 Get SPORTS取材班)●文 text by Ohta Makoto(tv asahi Get SPORTS crew)
  • 日刊スポーツ●写真 photo by Nikkansports

 メジャー移籍宣言はしたものの、なかなかチームが決まらない。高津はただ待ち続けるという辛く長い時間を、35歳にして経験することになる。

「野球をやっていて、打たれたり負けたりしたら辛いですよ。だけど、野球をやりたくてもできないことがいちばん辛い。シーズン中、みんなが試合をやっているのにひとりで練習している時は本当に辛い。その次に所属チームが決まらないというのが2番目に辛い。その2番目の辛さを35歳で味わうものかなと……。それなりの成績を残してやってきて、次のトライと思っていた矢先ですから。自分で判断したことですけど、野球をする環境が整わない、先が見えない状態ってこんなに辛いんだと初めて知りました」

 それでも高津の心が折れることはなかった。何としてでもチームを決めるという強い決意を胸に、日本ナンバーワン・ストッパーのプライドを捨て、トライアウトに挑んだ。そしてついに掴んだ夢の瞬間。

「Chicago is my field of dreams」

 ここでも苦難を乗り越え、シカゴ・ホワイトソックスの高津臣吾が誕生した。すると、1年目から24試合連続無失点を記録するなど、ストッパーとして活躍し、地元ファンからも「ミスター・ゼロ」と称えられた。しかし、2年目は思うような投球ができず、チームを去り、日本に戻ることになる。高津は今、この挑戦をどう思っているのだろうか。

「結局、2年目の途中でクビになってしまうんですけど、それでも行ってよかったですね。ヤクルトに残っていたら、その後も何年かできたもしれないですけど、アメリカでの時間は、すごく大切なものというか、幸せでした。本当に行ってよかったと思います」

 2006年、古田の監督就任とともに日本に戻り、日米通算300セーブを達成した。しかし翌年、戦力外通告を受け、再びチームを去ることになってしまう。その後、韓国、台湾と渡り歩き、日本人選手として初めて世界4カ国のプロ野球を経験した。だが高津は、これまでに抱いたことのない気持ちで野球をやっていたという。

「2008年からは、言葉は古いですけど、根性とか、意地とか、反骨心とか、そういう思いだけで野球を続けていましたね。野球自体も好きだし、プレイすることも楽しいし、仲間も増えて、それはそれですごくいい時間を過ごしました。ただ、野球を続ける意味というか、現状を考えた時に『まだまだ辞めねぇぞ』と意地だけでやっていた気がします。それまでとはちょっと違った気分で野球を続けていましたね」

 今年9月の引退会見の席で、「最後の4年間は死に場所を探している状態」と語っていたが、まさにこの時期から「引退」の二文字を意識するようになったという。

「ヤクルトに戻ってきて2年間プレイした時に、辞めるチャンスというか、タイミングがあったんですけどね。そこからは毎年、いつ終わってもおかしくない状態でしたので、いい意味でタイミングを失っていたのかなと。『もうちょっと』とか、『まだ、どこかでできるんじゃないの』とか、そういう気持ちでやっていました。ただ、野球を辞めなければいけないピンチというのは毎年ありました」
 そして現役にこだわり続けてたどり着いたのが、新潟アルビレックス・ベースボールクラブだった。名球会メンバーとして初めて独立リーグでプレイすることになった高津は、この場所で自らの原点を思い出すことになる。

つづく

「GET SPORTS」 高津臣吾引退企画 12月9日 24:45~ テレビ朝日系列で放送

新潟アルビレックスBC

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