【プロ野球】「殺気」に満ちていた社会人時代の攝津正のピッチング (3ページ目)

  • 繁昌良司●写真 photo by Hanjo Ryoji

 いくつかの球団から「指名」の意思を伝えられていた彼は、この大会を社会人野球での有終の美として、念願のプロ入りを果たそうと心に決めていた。ドラフト指名に心ときめかせ、そして強豪・ENEOSを相手にして、攝津は珍しく力んでいた。いつもなら両サイドに放射線状の球筋を形成する速球が、この日は中へ、中へと入っていく。

 6回途中まで4点を奪われてマウンドを降りた攝津は、試合のあと、「指名見送り」の報を受け、「ふたつの敗戦」に涙を流した。

「こんなに頑張っているのに、なんで報われないんだろうと思いましたね。才能なのか? 才能はそんなにないことはわかってる。ならば、まだ努力が足りないんだろう。まだ何かやれることがあるんだろうって……」

 東北人だなぁ……と思った。秋田で生まれ育って、仙台に就職して。仙台で生まれて、親戚が東北人ばかりの私には、口では大きなことは言えないが、黙ってコツコツと、黙々と汗を流す東北人の「匂い」がわかった。

 気を取り直して、さらに2年間の努力。
 2008年ドラフトの5位。

『目玉不在』といわれたこの年のドラフト。東海大相模高の大田泰示(現・巨人)が最大の注目株といわれたドラフトで、社会人のエースがひっそりと指名を受けた。彼の前に、高校生の内野手、左腕投手を3人指名した後だった。

 140キロ台の速球、スライダーにタテのカーブ。そして何より、右打者の足元に沈むシュート。加えて、そのコントロール。さらにコンスタントであること。これ以上の「プロらしさ」はないと考えている。

 コツコツと、黙々と、愚直に積み上げてきたものが、間違いなく今の彼の礎(いしずえ)となっている。

 これだけのピッチャーと、何度も繰り返し出会いながら、「流しで!」と思えなかった自分のつたなさを、今、あらためて恥ずかしく思っている。

プロフィール

  • 安倍昌彦

    安倍昌彦 (あべ・まさひこ)

    1955年宮城県生まれ。早大学院から早稲田大へと進み、野球部に在籍。ポジションは捕手。また大学3年から母校・早大学院の監督を務めた。大学卒業後は会社務めの傍ら、野球観戦に没頭。その後、『野球小僧』(白夜書房)の人気企画「流しのブルペンキャッチャー」として、ドラフト候補たちの球を受け、体験談を綴っている。

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