番記者が聞いた22年分のイチローイズム (3ページ目)

  • 小西慶三●文 text by Konishi Keizo
  • photo by Getty Images

【1999年4月20日@東京ドーム】

 この日、日本ハム・金村暁が4打席目のイチローを抑えていれば、プロ野球史上初となる開幕から3試合連続完封はほぼ確実だった。0-10という一方的展開の9回、無死一塁で飛び出した右中間本塁打は金村の快挙を阻止しただけでなく、史上最速の1000安打達成記録(757試合。従来の記録はブーマー・ウェルズの781試合)も大きく塗り替えた。だがそんなインパクト十分の1本にもイチローの素っ気なさは変わらなかった。

 メジャーリーグと違い、日本ではクラブハウスへのメディアの立ち入りが許されていない。そのため試合後の談話取材は選手がロッカーから出てきてからせいぜい数分の“ぶらさがり”で決まる。その頃のイチローが記者泣かせだったのはチームバスや車に乗り込むまでがおそろしく速いうえ、コメントそのものが少ないことだった。試合前、宿舎や自宅からの道中などでメディアと接触することもほとんどなく、担当記者たちは毎試合の原稿作りに苦心していた。

 この日のゲーム後も、東京ドーム三塁側通路から階段を駆け上がる彼についていくのが精いっぱいで、ほとんど質問を継ぐことができなかった。チームバスの乗車口前でやっと足止めし、「打てば打つほど、分かってくれば分かってくるほどバッティングは難しくなる」とのひと言を聞いた。一切笑わず、慎重に言葉を選んでいた姿はおよそ新記録達成には似つかわしくなかった。あの張り詰めたものの背後には何があるのか。その理由がやっとぼろげに分かってきたのは、メジャーでのイチローを取材するようになってからだった。

 高くなる一方のハードルを跳び続ける苦しさは、道を究めようとする者にしか分からない。結果往来でバッティングを片付けられればどんなにか楽だったか。しかし、彼は最後まで折れなかった。4000安打を放った日の会見で、イチローは「ちょっとややこしい言い方になりますが」と前置きし、「いろんなことが諦めきれない自分がいることを、諦める自分がずっとそこにいる。野球に関して妥協ができない」と語っている。

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