希望しかなかった東海大菅生の大器が、絶望を経て再起するまで。甲子園は逃すも元プロ指揮官は「素材は高校生投手でナンバーワン」

  • 菊地高弘●文・写真 text & photo by Kikuchi Takahiro

 2年夏を前に鈴木は右ヒジに痛みを覚えた。「下半身をうまく使えずに手投げになっていた」と、鈴木は痛みの原因を分析する。夏の大会を登板回避し、痛みが出る日も収まる日もある気まぐれなヒジと付き合う日々を過ごした。そして2年秋の東京大会準々決勝、鈴木は無惨な姿を見せる。

「ヒジが痛んだり、治ったりを繰り返して、無意識にヒジをかばってフォームが安定しない状態でした。ヒジが前に出てこないので、ボールが低めに決まりづらくて高めに浮いてしまう。そんな投げづらさがありました」

 この日リリーフでマウンドに立った鈴木は、送りバントによる1アウトしかとれずに3安打2四球を与えてノックアウトされている。美しかった投球フォームは影を潜め、バランスの崩れたぎこちない腕の振りはいたたまれなかった。「もしかしたら、鈴木の本来の姿はもう見られないのか?」と恐怖さえ覚えた。

裏方仕事で学んだ感謝

 秋季大会後、12月に鈴木は右ヒジ肘頭をチタン製のボルトで固定する手術を受ける。故障箇所が治療に時間のかかる靭帯などではないことが、不幸中の幸いだった。

 リハビリ中の3年春の公式戦はベンチ外。鈴木の名前はゆるやかにドラフト戦線から消えていった。

 春の大会中、鈴木はBチームのメンバーとともに試合会場の運営を手伝った。1年時から期待のホープだった鈴木は、グラウンド整備や審判への水分受け渡しなど初めて経験する裏方仕事を通して、いかに自分が恵まれていたかを悟ったという。

「みんなが陰でやってくれていたことを知って、『周りの人に支えられて野球ができているんだ』と実感できました」

 リハビリ期間は「今まで少なかった下半身のトレーニングを増やせた」と、プラスにとらえた。春になってボールを握れるようになり、徐々に強度を上げていくと鈴木は今までにない感覚を覚えた。

「前まではボールが捕手のミットに静かに入っていく感じだったのが、今はミットを少し押せるようになった感じがします」

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