希望しかなかった東海大菅生の大器が、絶望を経て再起するまで。甲子園は逃すも元プロ指揮官は「素材は高校生投手でナンバーワン」

  • 菊地高弘●文・写真 text & photo by Kikuchi Takahiro

 連日、灼熱の甲子園で熱い戦いが繰り広げられている今も、ふと地方大会で惜しくも敗れた選手たちの無念そうな表情がよぎる瞬間がある。7月31日、49地区で最後に甲子園出場校が決まった西東京大会。敗れた東海大菅生のエース右腕・鈴木泰成もそのひとりだ。

 この2年間の推移を見ている者からすれば、鈴木が地方大会決勝のマウンドに立ったことすら快挙に思えた。鈴木への期待は時にふくらみ、時にしぼみかけ、高校最後の夏に再び大きくふくらんだ。

西東京大会決勝で日大三に敗れた東海大菅生の鈴木泰成西東京大会決勝で日大三に敗れた東海大菅生の鈴木泰成この記事に関連する写真を見る

前途洋々の高校1年時代

 今から2年前の秋、高校1年生の鈴木を初めて見た時は希望しかなかった。当時は身長185センチ、体重72キロの長身痩躯。球速は140キロに満たないが、全身を持て余すことなく使うバランスのとれたフォームに釘づけになった。同じ人間とは思えないほど長い指先から弾かれたボールは、凄まじい勢いで捕手のミットを突き上げた。

 茨城県ひたちなか市出身の鈴木だが、友部シニアの先輩である高橋優貴(巨人)から「ピッチャーなら菅生に行ったほうがいい」と助言され、西東京の東海大菅生に進学したという。

 鈴木本人も自分の可能性を信じきっていた。1年秋の試合後に話しかけると、鈴木はてらうことなくこう語った。

「高校3年生で155キロを投げて、高卒にしろ大卒にしろ、プロになって日本を代表するピッチャーになりたいです」

 鈴木を指導する若林弘泰監督は、元中日の投手で厳しい指揮官として知られる。なにしろ自著のタイトルが『叱って伸ばす』(竹書房)である。そんな若林監督は、下級生時の鈴木についてこう語っていた。

「非常にポテンシャルが高くて、将来は本当に日本を代表するピッチャーになってくれるかなと感じるくらいです」

 2年春のセンバツでは故障したエース左腕・本田峻也(現・亜細亜大)に代わり、先発デビューを飾ってベスト8進出に貢献。高校生活は順調そのものに見えた。だが、ここから鈴木の暗転が始まる。

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