魔球を操った「甲子園優勝投手」日大三・吉永健太朗の今。みどりの窓口に勤務、声をかけられたのは「この2年でひとりだけでした」

  • 石塚 隆●取材・文 text by Ishizuka Takashi
  • 大友良行●写真 photo by Ohtomo yoshiyuki

「三高の吉永」がヒーローになった日

 2年の秋からエースとなり、第41回明治神宮野球大会でチームを優勝に導き、3年になると春のセンバツ大会ではベスト4に進出、そして満を持して、夏の甲子園へと挑んだ。

「じつは甲子園よりも東京予選決勝の早実戦のほうが記憶に残っているんです。勝たなければいけない空気のなか、接戦になりプレッシャーを感じたのを覚えています。ここで勝てるか勝てないかで、僕はもちろん仲間たちの人生も左右すると思ったので、あれは忘れようにも忘れられない経験になりました。だから逆に甲子園はプレッシャーから解放された感覚があったんです。ただ、調子がよすぎた初戦で右手中指の爪と皮膚がはがれてしまい、2回戦の開星高戦ではその影響でスライダーがまったく投げられず、打ち込まれてチームに迷惑をかけてしまったのも思い出としてすごく残っていますね」

 数々のピンチを切り抜け、吉永さんは、ついに決勝戦で勝利し、深紅の大優勝旗を手にした。シンカーを操り、相手バッターを手玉に取る「三高の吉永」は、甲子園のヒーローとなった。

「本当、かけがえのない経験でしたし、自分の人生において大きな出来事でした」

 まるで遠くを見つめるように、吉永さんは続ける。

「特に野球に関係する場所にいくと、僕のことを知っている方々が多くいらっしゃいます。時にいい意味でも悪い意味でも影響することはあるのですが、そこは自分次第だと思っているんです。最初から知られているなかで頑張ることができれば、若干のアドバンテージになることもあるので、そういった意味では、あの優勝があってよかったなって思っています」

 ひとつの結果が人生を左右することもある。ただ、それをよりよいものにしていくのは、最終的には自分次第である。

 みどりの窓口業務を始めて2年。利用客から「吉永さんですか?」と声をかけられたことはないのだろうか。

「よく他の人からそのことについて質問されるんですけど、実際にはこの2年でひとりだけでした。まぁ、あれから10年経っていますし、(コロナ禍で)マスクをしての業務でもあるので。ただ、ひとりだけであってもお声かけいただいた時は、すごくうれしかったですね」

みどりの窓口で駅員業務にあたる吉永さん(写真=JR東日本提供)みどりの窓口で駅員業務にあたる吉永さん(写真=JR東日本提供)この記事に関連する写真を見る そう言って吉永さんは表情をほころばせた。

 プロも注目した超高校級の甲子園優勝投手。選手としてその後も栄えある時間を過ごすかと思われたが、奇しくも吉永さんは苦難の野球人生を歩むことになる。

(インタビュー後編につづく)

【プロフィール】
吉永健太朗 よしなが・けんたろう 
1993年、東京都生まれ。2011年「第93回全国高等学校野球選手権大会」に日大三高のエース投手として出場し、優勝。その後、早稲田大、JR東日本で野球を続け、2019年に引退。現在は、JR東日本社員として駅員業務を担っている。

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