「監督なんてやるつもりはなかった」。センバツを最後に勇退する東洋大姫路・藤田監督の人望に敵将も感動 (2ページ目)

  • 谷上史朗●文・写真 text & photo by Tanigami Shiro

 藤田にはこれまで何度も話を聞かせてもらったが、最後にもう一度聴きたくなり、センバツ開幕の1週間前にグラウンドを訪ねた。藤田は通りのいい声で、まずこう言った。

「19年の監督生活に一切悔いはありません。勝負のかかる野球は十分にやりきりました。でも、わからんもんですよね。高校野球の監督なんてやるつもりはまったくなかったのに......一度ならず、二度もですから」

子育て真っ最中に35年ローン

 藤田は東洋大姫路野球部の10期生で、2年時は4番、3年時は3番を打ち、甲子園に2回出場した。

「バントはしたことないし、当時はレフトの守備にも興味ゼロ。おまけに足も遅くて、あだ名は"タブ"。なにかって言ったらブタの反対。今より肉がついていて、世間の人が思うような"東洋大姫路っぽい選手"ではまったくなかったんです」

 甲子園出場後に発売された雑誌で、評論家になりたての川上哲治が大会で目についた打者として「右は角富士夫(福岡第一→ヤクルト)、左は藤田」と取り上げてくれたことがいい思い出だ。

 高校卒業後は東洋大、社会人の強豪・東芝でプレー。東芝では監督も務め、37歳でユニフォームを脱ぎ、その後は社業に専念。関東に家も購入し、嫁とふたりの娘とのどかな人生を送るつもりだった。ところが......。

 1995年1月に起きた阪神・淡路大震災の直後、関西にゆかりがあるということで転勤の辞令を受ける。関西圏でエレベーターの販売をし、休日になると母校の練習を見るなど忙しい日を送っていた。

 そんなある日、チームに不祥事が起き、監督が辞任。後任を探すなか、当時すでに部長で、今春、藤田とともに定年となる三牧一雅の頭に浮かんだのが藤田だった。誠実な人柄と熱のある指導。三牧は「この人しかいない」と学校にも承諾を得て、満を持して藤田に打診した。しかし、藤田は首を縦に振らなかった。

「嫁さんに軽くこんな話があるんだけど......と言ったら、『お父さん、なに考えてるの!』と。もっともな話で、35年ローンで家を買ったばかりで、子どもも小さい。このタイミングで会社を辞めるなんて、『冷静に考えて!』ってことです。もちろん、私も引き受ける気はありませんでした」

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