日本一経験の名将は日大三島で指導方針を転換。報徳学園時代の方法では「時代にそぐわない部分もある」 (2ページ目)

  • 沢井史●文 text by Sawai Fumi
  • photo by Ohtomo Yoshiyuki

 新チーム結成後、朝から練習できた日は数えるほどしかなかったが、選手たちは懸命についてきた。

「報徳学園の時は厳しいこともキツイこともガンガン言って、厳しい指導もしました。こっちが言えば、ガッと食らいついてくるような雰囲気があって、そういう気持ちがチームの強みにもなっていました。でも、それをこっちでやるとシュンとしてしまう。静岡の県民性もあると思いますし、なにより今の時代の指導にそぐわない部分もあります。なので、ここに来てから指導方針を変えました」

 練習前、選手たちにかける声は、報徳学園時代と比べて1トーン、いや2トーンは下がっている。声をかけるというよりも語りかけるような優しさで、最後に「今日も1日頑張っていこう!」と、元気よく選手らを送り出す。

「報徳時代の教え子によく言われます。『先生、丸くなりましたね』って」

【選手に足りなかった成功体験】

 指導方針は変わっても、不変なものもある。それは全員を平等に扱うスタイルだ。報徳学園では1学年の部員数が30人を超えることも少なくなかったが、全員に同じ量の練習を課した。全部員がフリーバッティングを終えるまでかなりの時間を要するが、それが永田監督のモットーとする"全員野球"の根底にある。

 注目選手に取材を申し込んでも、「特別扱いはしない」と練習中に個別対応はせず、すべてのメニューを終えてからするのが決まりだった。

 それに加え、日大三島では型にはめないスタイルも取り入れている。髪型は「坊主でなくても短髪であればOK」と、選手たちの考えに委ねている。

 日大三島の選手たちに足りなかったものがあるとすれば、成功体験だった。まずは実戦経験を積ませようと、土曜日の授業がなかった週末に、地元である関西遠征を敢行。その時、あることを思いついた。それが、甲子園の球場内に入ることができる「スタジアム見学ツアー」だった。

「(甲子園に)行ったことのない子ばかりなので、球場の中に入れるということで、その景色を見せてあげたかったんです。コロナでベンチには入ることができなかったのですが、こっちとしては逆によかった。選手たちに『ベンチに入る方法はひとつだけあるぞ。東海大会で2つ勝って決勝に進めば、ベンチに入れるぞ』って言ったんですよ。気合いを入れて、次の日からの練習試合に臨んだら3連敗でした(笑)」

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