横浜高校OBが語る「松坂大輔以上の逸材」。すべてがずば抜けていて「大谷翔平に近かった」【2021年人気記事】

  • 浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo

――将来を嘱望されていた丹波投手は、2年生時の夏(1995年8月17日)に17歳という若さで突然亡くなりました。山本さんは横浜高校を卒業されていましたが、その訃報を聞いた時の状況は?

山本 その時は、九州に帰省していたんです。高校の時は全然帰ることができなかったんですが、大学に入ってから時間が取れて、甲子園に応援にきてくれた親戚たちと会っていました。そんな中、同級生から「丹波が急性心不全で亡くなった」と連絡が来て、「まさか」と......本当にびっくりしました。前の日まで練習していたのに、翌朝に亡くなっていたそうです。

 すぐあとには、センバツ出場をかけた関東大会が控えていたんです。チームは丹波がいなくなってしまって練習どころではない、という話になっていたことも聞きました。それでも、後にヤクルトに入団した松井光介がセンターからコンバートされてエースの座を引き継ぎ、翌年(1996年)は甲子園に春夏連続で出場しました。卒業後も後輩たちのことは常に気にかけていましたが、彼らの戦いぶりには心を打たれるものがありました。

 さっき話に出た番組で見たんですけど、4歳上のお兄さん(丹波幹雄)も横浜高校で野球をやられていて、のちにヤクルトに入団しているんですよね。肘を痛めて2年生の春頃に退部し、野球から離れていたみたいですが、弟の遺志を継ぐ形で社会人野球のクラブチームで野球を再開して、数年後にヤクルトにドラフトで指名された。丹波が、ご家族や仲間からいかに愛されていたかが伝わってきますよね。

――渡辺元監督は、丹波投手が生きていたら、「横浜高校で監督をしていたかもしれないし、あるいはプロで頑張っていたかも」とも話されていました。

山本 3年生だった僕らが丹波と一緒にいたのは、4月から7月までの約4カ月。短い時間だったので、あまりコミュニケーションを取る機会もなかったですが、存在感は大きかったですし、人間としての"誠実さ"も印象的でした。丹波が生きていたらどうなっていたか......本当に見たかったですね。

(後編:小倉コーチの猛練習と横浜高校あるある

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