2021.09.03

甲子園決勝で兄弟校対決の原点。智辯のユニフォームを「朱赤」に変えた男は勝利への執念がすごかった

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • photo by Okazawa Katsuro

 ところが1972年の春に想定外のことが起こる。ある日の練習中、温厚な和泉が「あの人とはもう無理や!」とノックバットを地面に叩きつけ、「あとはおまえがやれ!」と高嶋に言い残し、グラウンドを出ていった。藤田の当たりの厳しさに和泉がキレた形で、急遽、高嶋が後任となった。

 しかし、高嶋が監督になってからの3年間の夏の成績は、2回戦(初戦)、1回戦、2回戦負け。この間、高嶋は辞表を三度も書いたが、藤田はその度に「こんなもん書く暇があったら練習せぇ!」と破り捨てた。

 この頃の野球部員たちは、校長室で高嶋が直立不動で叱責されている姿や、入室を許されずドアノブを握りしめたまま藤田に頭を下げている姿をたびたび目撃していた。

 現在の理事長で、藤田の長男である清司からも父の厳しさについて聞いたことがあった。

「とにかく結果を一番に求める人でした。私も子どもの頃から『一番になれ。負けるな!』しか言われなかった。私の場合は勉強でそれを求められ、結果に満足しないと手も足も飛んできました。学校経営も同じで、勉強も野球も1番。2番や準優勝というのがなにより嫌いな人で......とにかく厳しかった」

 ある時、職員会議で野球部員に対し「こんな成績の生徒を入れるわけにはいきません」と反対する声が教員から上がると、藤田はピシャリと封じた。

「甲子園に出るというのは東大へ行くのと変わらんくらい難しい。抜きん出ているものを伸ばしてやるのが教育やないんか!」

 朱赤を基調としたユニフォームの誕生にも、藤田が大きく関わっている。高嶋の赴任当時、ユニフォームのメインカラーは燕脂だったが、藤田の号令で変更。メインカラーに朱赤を主張した理由はこうだ。

「これからはカラーテレビの時代になる。なにより目立つ色で、若人の燃えたぎる青春の血を示す赤がいい」

 ところが、この藤田の案に「派手すぎる」と高野連からストップがかかった。これに藤田が猛反発。「弁天宗をつくったのは女の人やから、シンボルの色は赤なんや。宗教の世界を否定するのか」と迫り、承認を取りつけた。