昭和、平成、令和...親子三代で甲子園出場を果たした「智辯和歌山・高嶋家物語」 (3ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • photo by Kyodo News

 茂雄はサードの2番手だったが、同級生のレギュラー選手が練習中に負傷し、県大会準決勝の市和歌山戦で出番が回ってきた。8番・サードで先発出場を果たすと、先制タイムリーを含む2安打3打点の活躍でチームの勝利に貢献。

 続く決勝の星林戦でもスタメン出場し勝利。親子鷹での甲子園出場を果たした。しかし、甲子園では初戦の学法石川戦(福島)に先発出場したが、2対3で敗れた。

 翌年夏も和歌山大会前は控えの三塁手だったが、大会終盤に先発出場の機会が巡ってきた。準決勝ではボール球のスライダーに食らいついた打球がセカンドのうしろにポトリと落ちる決勝タイムリー。仁が「力はたいしたことないけど、人のおらんところに打つのがうまい(笑)」と振り返った一打でチームを救うと、決勝も勝利。最終回はサードライナー、サードフライ、サードゴロと、茂雄が3つの打球をさばき、2年連続して甲子園出場を決めた。しかし、甲子園では拓大紅陵(千葉)に3対4で敗れ、またしても初戦敗退となった。

 その後、茂雄は日体大を経て、スポーツメーカーに勤務したのち教員となる。智辯学園が経営する奈良カレッジ(中学)で野球部の監督にも就き、平穏な日常を過ごしていたが、茂雄のなかにある思いが去来する。

 野球に熱中し始めた奨哉と一緒の時間を過ごしたい──当時の心境について茂雄に尋ねると、「僕がずっと親父に思っていたことです」と言って、こう続けた。

「小さい時から親父と遊んだ覚えもなかったし、野球もたまたま早く帰ってきた時にティーをあげてもらうくらい。やっぱり寂しいというか、そういう気持ちがあったので、同じ思いを息子にさせたくなかった」

 そこで希望し、土日の休日が増える支援学校への勤務となり、奨哉と過ごす時間をつくった。

 今から6年前、小学6年となった奨哉が現チームメイトの徳丸天晴らと阪神タイガースジュニアの一員として戦った「12球団ジュニアトーナメント」を仁と観戦したことがあった。

「結構、ええバッティングするんですよ」
「智辯和歌山に行きたいと言うから、『行きたかったら勉強せぇ!』といつも言うとるんです」

 孫について語る姿は、まさに"じいじ"と呼ぶにふさわしい。

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