中学時代の練習相手は両親のみ。神村学園の異色球児は鹿児島ナンバーワン左腕となった (2ページ目)

  • 菊地高弘●文・写真 text & photo by Kikuchi Takahiro

 ただし、高校入学後の道のりは平坦ではなかった。小田大介監督が振り返る。

「入った頃の球速は110キロちょっと。柔軟性や関節の可動域はすごくありましたが、ここまで成長するとは想像以上です。彼が3年間努力した結果でしょう」

 1、2年時は筋力づくりに努め、その後は連動性を追求したと泰は言う。

「もともと体のしなやかさはあったのですが、動きのなかで噛み合っていませんでした。いろんな指導者の方に教えていただいて、柔らかさを生かせるよう連動性を磨いていきました。たとえば、メディシンボールスローで捻転差を使う動作を覚えました」

 泰の言葉を聞いていると、この選手が恵まれた身体能力に頼ってプレーしているわけではないことが伝わってくる。泰が語った投球技術の一部を紹介してみよう。

「高校野球で使う球場のマウンドは土が柔らかいので、毎回違う状況で投げる心づもりでいます。その環境でいつも自分のマックスをぶつけられる対応力を身につけないといけないと思っています」

「(スライダー系の持ち球について聞かれて)『カットボール』と言っているんですけど、実際には横のスライダーだと思います。でも、自分のなかで『カットボール』と認識しておかないと、どうしても曲げにいってしまうので、あえて『カットボール』と言っています」

 神村学園の恵まれた環境と、泰の類まれな身体能力と理解力によって、無名の投手は鹿児島ナンバーワン左腕にまで上り詰めた。

 しかし、その才能をすべて開花させるには、3年足らずの時間では短すぎたのだろう。泰は手のつけられないような快速球を放ったと思えば、ストライクがまるで入る気配のないストレートの四球を連発することもある。未完成ゆえの粗さは泰の魅力でもあり、弱点でもあった。

 7月24日、鹿児島大会準決勝・鹿児島実戦は、泰の現状が凝縮された試合になった。

 立ち上がりは、2回まで5四死球を与える大乱調で2点を失った。泰は「バッターと勝負するより自分のフォームを考えすぎてしまった」と反省する。

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