「プロ野球選手→高校監督」の先駆者・大越基の信念。「甲子園出場=いい指導者という考えはない」

  • 井上幸太●文・写真 text & photo by Inoue Kota

 余談だが、大越と同時期に教員免許取得のために東亜大に編入、通学していたのが、今では同地区でしのぎを削る仲となった下関国際の監督を務める坂原秀尚だった。なお当時は「研究室が違って交流はなかったが、お互いの存在は知っていた」そうだ。

 早鞆に監督候補として着任する話が進む中、大越には迷いがあった。当初は「山口で指導者をやるとは、まったく考えていなかった」からだ。しかし、その迷いは教育実習で母校・仙台育英(宮城)に帰った際に払しょくされた。大越が回想する。

「元々、山口で指導者をするという考えがなくて。プロとして過ごした福岡であったり、母校のある宮城であったり、そういった場所で指導者をやれたらと考えていました。なので、お話をいただいたときに戸惑いはあったんですが、教育実習で仙台育英に行った際に、自分を担当してくださったラグビー部監督の丹野博太先生(2020年度を最後に勇退)から、ある言葉をいただいて、覚悟が決まりました」

 その言葉とは「福岡なら知り合いがいっぱいいるだろうし、宮城は当然おまえのことを知っている人がいっぱいいる。それよりも、何も知らない土地で教育を学んだほうがいい。それからどこか違う場所にいくのはおまえの自由だけど、まずは自分が何も知らない、誰も知り合いのいない土地で、いろんな経験をして、学べ」というものだった。大越が続ける。

「誰かに甘えよう、バックアップしてもらおうとは思っていなかったんですけど、丹野先生の言葉がスッと頭に入ってきた。合わせて伝えられたのが『知らない土地でやるとなると相当苦労するよ』。自分もそうだよなあと思ったんですが(苦笑)、恵まれた環境で野球をやらせてもらってきた自覚があったので、飛び込んでみようと決意しました」

 先述のとおり、東亜大を卒業し、2007年4月から教員として早鞆へ。2年間は野球部に関われない状況だったが、町ですれ違った地元民から「あんたが早鞆の指導者になっても応援しないから」「母校(仙台育英)でやれよ」と冷たく言い放たれた。もとは3年夏の甲子園で準優勝した「甲子園のスター選手」。そして当時は元プロの高校野球監督が少なく、物珍しかったからこその洗礼だったが、丹野の助言をいきなり身をもって味わった。

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