「すぐ辞めそうだった」男が大阪桐蔭のエースへ。センバツ初戦で快挙を達成した (2ページ目)

  • 田口元義●文 text by Taguchi Genki
  • photo by Okazawa Katsuro

センバツ初戦の仙台育英戦でノーヒット・ノーランを達成した大阪桐蔭・和田友貴彦センバツ初戦の仙台育英戦でノーヒット・ノーランを達成した大阪桐蔭・和田友貴彦 同年秋になると、さらに多くの1年生がメンバーに入った。彼らが経験を積み、パフォーマンスを最大限に発揮できた背景には、監督である長澤和の存在も大きい。

 長澤は、関大一から関西大に進み、山口高志(元阪急)らとともに、1972年の全日本選手権、明治神宮大会で優勝。社会人野球の大丸では7年連続して都市対抗野球に出場し、1977年には日本代表選手としてニカラグア遠征も経験した。いずれも4番打者を務めた強打者だった。

 そんな長澤は、とくに自主性を重んじていた社会人野球に強い影響を受けたという。だからこそ、1988年に大阪桐蔭で初めて指導者となってからも、そのスタイルを貫いた。

 投手、打者関係なく、型にはめることなく、本人のスタイルを尊重した。長澤がその狙いを説く。

「バッターでいうと、同じフォームばかり並んでいたら、ピッチャーは決まったタイミングで放ればいいので、投げやすくなる。なので、『脇を締めて打て』や『こういうフォームで投げろ』など、一度も言ったことはありません」

 森岡と長澤が築いた土壌で、急成長を遂げたひとりが和田友貴彦だ。

 多くの選手がボーイズリーグなど硬式のクラブチーム出身のなか、和田は和歌山・伏虎中の軟式出身である。中体連では近畿大会まで出場し、和歌山では名の知れた投手であったが、大阪では無名だった。

 もともとは地元の公立校を志望していたが受験に失敗。かねてから目をつけていた森岡から「再募集の試験で大阪桐蔭を受験しないか?」と誘われ、言われるがまま受験し、入学した。

「大丈夫かな?」

 これが和田の偽らざる第一印象だった。

「グラウンドも寮も山の上で『ホントにこんなところで野球やるの?』って(笑)。あとから聞いたのですが、(コーチの)有友(茂史)先生は『すぐ辞めるだろうな』と思っていたようで、同級生からも『おまえがあんなピッチャーになると思わなかった』って言われますから」

 この世代のエースの候補は、背尾伊洋(せお・よしひろ/元近鉄など)だった。和田と同じく中学時代は部活動の軟式出身ではあるが、「何度もノーヒット・ノーランを達成した」といった逸話があるほど大阪では有名な投手で、同級生の間では「オレらの代のエースは背尾」で一致していた。

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