廃部寸前からセンバツ出場の奇跡。大崎の監督が思う島民への「恩返し」 (4ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • photo by Kyodo News

 選手たちと同じ寮生活をし、朝夕の食事もともにするなかで、清水の"素"の部分を垣間見ることができる。たとえば、時間に余裕がある日の夜、清水の発案で映画鑑賞会を寮の食堂で開くことがある。そこで選手たちは「監督、結構映画に詳しいなぁ」「SFが好きなのか......」と気づく。

 そうしているうちに選手との距離はどんどん縮まり、やがて強固な信頼関係が生まれていった。

 生徒のなかには、息子の清水立もいる。

「初めは大崎に来るのは反対したんです。でも、今まで何もやってやれなかったのもあったし、本人がどうしてもというなら......と。ただ寮でも練習でも、二人ともいたって普通なので、まわりもとくに気にしていないと思います。面白い話は何もないです」

 学校がある大島は、九州本土の西彼杵半島と橋で結ばれた周囲29キロの小さな島。かつては産炭地として賑わったが、1970年に炭鉱は閉鎖。代わって造船が主産業となり、99年は大島大橋が開通した。

 車なら佐世保から40〜50分、長崎市内からでも1時間半前後とアクセスは整備されたが、人口の減少は続き、生徒数も3学年トータルで100人を少し超える程度。過疎化が進む地での高校野球に、清水はこんな思いを抱いている。

「昔の話を聞くと、島だけで3万人くらいの人がいて、当時の写真を見たら映画館があったり、デパートがあったり......そんな賑わった時代を知っている人たちが今、野球部を応援してくれている。たまに練習が休みだったりすると、『静かで寂しい』と言われることがあるんです。街中なら『うるさい』と言われることはあっても、『寂しい』なんて言われることはないですよね。生徒たちの声を聞いて『元気になる』って言ってくれる方もいて......そんなことを言われたら頑張らないといけないですよね。高校野球のよさというか、役割ってこういうところにもあるんだとあらためて思っています」

 清峰、佐世保実業での監督、部長、コーチ時代も含めて、自身7度目となる甲子園は「支えてくれている人たちのために」と、ひと際思いがこもる。つい1カ月前に50歳となった指揮官には、戦う理由がはっきりと見えている。

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