「補欠監督」だからできた仙台育英の大改革。保護者の前で「数値重視」を宣言した (3ページ目)

  • 元永知宏●取材・文 text by Motonaga Tomohiro
  • photo by Sankei Visual

【センバツ準優勝しても悔しさしか残らない】

 仙台育英は2001年3月25日に開幕したセンバツで快進撃を見せた。東北勢として初めての全国優勝を期待されたが、決勝戦で常総学院(茨城)に6対7で敗れた。

「僕自身には、まったく満足感はありませんでした。日本一を逃したという悔しさしかない。でも、活躍した選手たちはそうではなかったですね」
 
 センバツ準優勝、夏の甲子園出場――。ふたつの成果を得て、須江は学生コーチの役割を後輩に譲った。

「同期のメンバーたちと打ち解けることができたのは引退したあとです。役割がなくなって、解放された感じでした。『どうすれば人の心を動かせるのか』とずっと考えていて、最後までそれはできなかったけど、いろいろなことを学ぶことができましたね。

 引退後は、埼玉から仙台に来て、野球をしたことにどんな意味があったのかを考えました。1年間、義務感と責任感を持って学生コーチをやって、それまで友達だった仲間と距離ができてしまったなと。みんなの心が離れたのは、自分のやり方がまずかったから。『学生コーチになってやったのに......』という思いがあったからです」

 数えきれないほどの後悔を抱え、夏休みが終わるころに指導者への道を模索し始めた。

「学校の先生になって、後悔を晴らしたいと考えました。高校野球の指導者になれたら、『こんなことをしたい、あれもしよう』と、いくつも頭に浮かびました」

 進学先に仙台育英を選んだことに後悔はなかったし、仙台での日々はすばらしいものだった、と須江は思っている。ただ、学生コーチとして仲間と楽しく活動できていたら、野球人生にピリオドを打っていたのかもしれない。

「野球の才能に見切りをつけて、勉強して、別の道に進んでいたでしょう。教員になろう、指導者になろうと思ったのは、後悔があったから。その後悔をそのままにしておくわけにはいかなかった」

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