「補欠監督」だからできた仙台育英の大改革。保護者の前で「数値重視」を宣言した (2ページ目)

  • 元永知宏●取材・文 text by Motonaga Tomohiro
  • photo by Sankei Visual

【17歳の学生コーチにできるのは「怒ること」】

 仙台育英には、3年生が引退して新チームが立ち上がる秋に、最上級生となる2年生からGM(グラウンドマネージャー)、いわゆる「学生コーチ」を選ぶ決まりがあった。当然、メンバーに入れない選手がその対象になる。

「絶対に誰かがやらないといけないけど、『僕がやります』と手を挙げる人間はいません。でも、『学年でミーティングして必ず出せ』という伝統だったんです。それを選ぶときは、親や中学時代の仲間の顔が浮かびました。マネージャーとか、学生コーチになることは『カッコ悪い』と思っていました」

 しかし須江は、引退する3年生に「おまえがやるしかないだろ!」と言われ、腹を決めた。

「キャプテンだった人に『おまえがチームを勝たせるしかない』と言われたんです。尊敬できる先輩だったこともあって、学生コーチになることを決意しました」

 須江がどれほど重大な覚悟を持ってそれを受諾したのか、ほかの選手たちは理解していなかった。

「僕は誇りを持って学生コーチになると決めました。自分の中には『選手をやめて、みんなのために学生コーチをやってやる』という思いが強かったんです。そのことが、いろいろとややこしくしてしまうことになるんですが......」

 そんな覚悟をしたのに、なぜみんなは一生懸命に練習しないのか?

 どうして俺の指示をちゃんと聞いてくれないのか?

 そんな思いが少しずつ溜まり、いつしか怒りとして表に出た。

「メンバーの中には、『おまえはヘタだから、それしかやることないんだろ?』と思っていた選手もいたでしょうね」

 ボタンの掛け違いから、感情のもつれは大きくなっていった。17歳の高校生にチームマネジメントの知識も経験もなく、須江ができることは選手たちを怒ることだけだった。

「僕が怒れば怒るほど、みんなとの距離は離れていきました。それがわかっていても、まだ怒る。"人を転がす"ようなことはできませんでした」

 学生コーチの須江とメンバーとの緊張関係は、最後の夏の大会が終わるまで続いた。

「控え選手たちとはうまくコミュニケーションが取れていましたし、後輩たちには好かれていて、すごく応援してくれました。だけど、"怒り"では何も変えられない。そのことを、僕は高校時代に学びました」

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