2020.09.04

記録的猛打から20年。智弁和歌山
OBが語るあの夏の記憶と「根性論」

  • 沢井史●文 text by Sawai Fumi
  • photo by Kyodo News

 そのセンバツ大会で準優勝を果たしたものの、チーム内には「このままでは満足できない」という空気が支配していた。

「センバツでは早く負けて『ほらな』って言われるのが嫌で......もし今みたいなネット社会だったら、相当叩かれていたかもしれないですね。準優勝できたのはよかったですが、やっぱり優勝したかった。でも、夏に向けてプレッシャーはありませんでした。『これだけやれば甲子園に行ける、甲子園で勝てる』という練習を1年の時からやっていましたから」

 当時の智弁和歌山は1学年10人の少数精鋭(現在は12人)。和歌山を中心に関西圏の有望な選手が集まり、入学直後から徹底的に鍛え上げられた。

「入学すると『こういうメニューをやるから』と練習内容を伝えられるのですが、ほとんどがランメニュー。めちゃくちゃきつくて、リタイアして途中で帰った同級生もいました」

 今でこそ"猛練習"は異論を唱えられる時代となったが、当時は鍛えてなんぼという風潮が強かった。そこで鍛えられた精神力は、当時の智弁和歌山ナインにとって大きな武器となっていた。

 3年夏の甲子園でも、それは遺憾なく発揮された。2回戦の中京大中京戦では、7点リードするも徐々に追い上げられ1点差まで詰め寄られるが、最後まで逆転を許すことはなかった。

 そして3回戦の相手はPL学園(大阪)。さすがに「負けるならここやろうと思っていました」(後藤)と語ったように、智弁和歌山ナインにとって間違いなく格上の相手だった。

 ところが、序盤から智弁和歌山打線がPLの2年生右腕・朝井秀樹(元巨人)に襲いかかり、5回表が終わった時点で9対1。思わぬ大差に5万人を超える観客からはどよめきが起こっていた。

 ただ、後藤は点差があることを感じていなかった。

「PL戦は何点取っても安心できなかったですね。相手はみんな野球がうまくて、走塁もそつがない。打ちそうな雰囲気がありますし、リードしていても怖かったですね。智弁和歌山は打つけど、野球が大味でしたから(笑)」