前代未聞!公式戦初出場が甲子園。加藤学園1年は「忍者」に似ていた (2ページ目)

  • 菊地高弘●文 text by Kikuchi Takahiro
  • photo by Ohtomo Yoshiyuki

 3月にはコロナ禍を受けてセンバツが中止になった。太田たち1年生が入学する時期には緊急事態宣言が発令され、野球どころではない日々を過ごした。

 太田が初めて野球部の練習に参加したのは、5月中旬のことだという。そのとき、初めて先輩と顔を合わせた。

「最初は加藤学園の野球を何も知らなかったので、同じショートだった大村(善将)さんに二遊間の連係やサインプレーを教えてもらいました。自分からも積極的に聞いて、学びました。中学でやっていたこととは違って、加藤学園ではグラブを地面に着けておくとか、捕ったら『1、2』とかけ声をかけて素早く送球するとか、レベルが高くて驚きました」

 例年よりも1カ月半も遅く始まった高校生活。本来なら、ゆっくりと野球部に慣れていけばよかったのかもしれない。だが、状況が大きく変わったのは7月12日。静岡の独自大会初戦に臨んだ加藤学園は、飛龍に2対3で敗戦。甲子園交流試合に出場するチームのなかで、もっとも早く独自大会で敗退してしまった。

 この敗戦に危機感を覚えた3年生たちは、「勝ちにこだわりたい」と米山監督に訴えたという。その結果、本来はショートを守りながら失策数の多かった大村をセカンドにコンバートし、1年生の太田がショートに入った。

 交流試合に1番・ショートで起用されることは試合当日に知ったが、大会前から10試合以上も起用されており、太田に心の準備はできていた。

「緊張していたんですけど、監督から『思いきっていってこい』と言われてラクになりました。(キャプテンの)勝又(友則)さんには『エラーしてもいいから楽しんでやれ』と言ってもらえました」

 だが、試合開始直後から太田を試練が待っていた。

 1回表の守備中、一死一塁の場面で鹿児島城西の3番・板敷政吾の放った打球は、ショートの太田の前に転がった。ゴロを抑えた太田だが、ベースカバーに入るセカンドの大村との呼吸がわずかに合わない。「硬くなってしまった」という太田の送球が逸れ、本来なら併殺でチェンジになるはずが、一死一、二塁とピンチが広がった。オーロラビジョンには、太田のエラーであることを示す「6E」の表示が灯った。

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