甲子園に嫌われ続けた大阪桐蔭・西谷監督。
しつこく積み重ねた7度の日本一

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • photo by Ohtomo Yoshiyuki

 最上級生になると、控え捕手ながら西谷はキャプテンを任された。当時の関大は、監督が学校業務で忙しく、練習メニューはもちろん、試合のオーダーもキャプテンが仕切ることが多かった。ここで大所帯を束ねる難しさや組織運営のノウハウを学んだという。

 大学後の進路を考えていた西谷の前に再び現れたのが長澤だった。この時、すでに大阪桐蔭の監督だった長澤は、「卒業したらどうするんや? うちでやってみる気はないか」と西谷を誘った。

 大阪桐蔭は1991年の夏に全国制覇を達成しており、西谷もテレビで甲子園の戦いを見ながら「SSKのおっちゃんもえらいことになったなぁ......」と驚いていた。そんな長澤からの誘いを喜んで受け、1993年春、社会科教諭、野球部コーチとして大阪桐蔭へ赴任することになった。

 指導者人生が始まると、"練習の虫"と評された現役時代そのままの熱さで選手たちを鍛え上げた。長澤は"西谷コーチ"の印象を、のちにこう語っている。

「頭の中が野球一色。のちに監督として全国制覇も果たしますが、私からしたらコーチこそ天職のタイプ。とにかく熱心で、彼の練習、指導はいい意味でしつこい。いま大阪桐蔭で部長を務めている有友(茂史)くんは選手から恐れられるタイプで、西谷くんはしつこく絞り上げるタイプ。選手は長いこと苦しめられていましたね(笑)」

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