横浜高校・渡辺元監督が感謝する本塁打「長くできたのはあの1本のおかげ」 (2ページ目)

  • 楊順行●文 text by Yo Nobuyuki
  • photo by Ohtomo Yoshiyuki

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 広島商との決勝はスコアレスで進み、延長10回表に横浜が待望の先制点。面白いのはここからだ。

「その裏、レフトの冨田(毅)が打球をグラブに当てて落とし(記録はヒット)、同点。勝ったと思ったところのエラーで、ベンチに戻ってきて冨田を注意しようと思っていたら、警戒してなかなか私の近くに来ない(笑)。ただ、間(ま)が空いたことで、ちょっと冷静になれたんです。自分でも不思議なのですが、冨田に『次、打てばいいじゃないか』と声をかけました。

 そうしたら、冨田は涙を流すんです。普段はやんちゃで、注意してもケロっとしているヤツが、涙を流すんです。優しい言葉をかけられるなんて思いもしなかったのでしょうね」

 そして11回表、二死一塁から打席に入った冨田が、優勝を決める2ランホームランを放つのである。今では好々爺にして人格者の渡辺にも血気盛んな時代があったのだ。

 無理もない。なにしろ当時の横浜には「野球がなかったら、将来どうなっていたかわからない」(渡辺)ような、ひと癖ある選手が揃っていたのだ。

 渡辺は戦中の1944年生まれ。家が貧しかったため叔母の家と養子縁組し、田中姓から渡辺姓となる。

 横浜高3年夏は神奈川県大会の準決勝で敗れるなど、甲子園出場は果たせなかった。卒業後、神奈川大に進学するも、肩を痛め、手術したが完治せず、2年途中で野球を断念。プロ野球選手という目標を失うどころか、プレーすらままならず、車を乗り回し、酒を飲み、ケンカに明け暮れる......「自暴自棄の日々だった」という渡辺は、結局、大学も中退する。

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