2020.05.10

日大三・小倉監督の原点は「打倒・帝京」。
不遇を糧に歩んだ名将ロード

  • 楊順行●文 text by Yo Nobuyuki
  • photo by Ohtomo Yoshiyuki

 小枝は小倉の兄・博活さんと大学時代の同級生で、小倉の高校時代も学生コーチを務めていた。その小枝から「遊んでいるなら練習を手伝え」と声をかけられた。当時、先輩の言葉は絶対で、合宿所に住み込んでのコーチ見習いが始まった。

 大学4年だった1979年夏、日大三は西東京大会を勝ち抜き17年ぶりの甲子園出場を果たした。初戦で天理(奈良)に敗れはしたが、小倉は試合前に任されたノックを今でもはっきりと覚えている。

「芝がきれいで、スパイクの刃が土にサクッと入ってね......もし監督としてここに来られたらどんなにいいだろうと、その時に初めて指導者という進路を考えましたね」

 甲子園のあと、当時の野球部長から「学校に残れ」と言われた。その言葉に安心し、就職活動はしなかった。だが新年度、秋から新監督を迎えることが決まり、小倉の就職はご破算となった。名門ゆえ、OBの力は大きい。そういえば、敗戦報告でOBの長老宅を訪れると、小枝監督が正座し、叱責される姿を何度も見てきた。

 仕方なく地元に戻って教員採用試験に備えていたその年の暮れ、気の毒に思ったある日大三OBから関東一を紹介された。

 野球部強化を進めていた関東一は、じつは実績のある小枝を招きたかった。だが、日大三を追い出された格好の小枝には「東京のチームではやらない」という意地があった。そこで、自身は千葉の拓大紅陵に新天地を求め、関東一は小倉に譲ったというのだ。