日大三・小倉監督の原点は「打倒・帝京」。不遇を糧に歩んだ名将ロード (2ページ目)

  • 楊順行●文 text by Yo Nobuyuki
  • photo by Ohtomo Yoshiyuki

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 ただ、そもそも日大三OBである小倉が、なぜ関東一を率いるようになったのか、その背景は意外と知られていない。

 1957年に千葉・一宮町で生まれ育った小倉は、銚子商への進学を考えていたが、当時日大でプレーしていた6歳上の兄・博活さんから「レベルが高い」と勧められた日大三への入学を決めた。

 入学後に投手から三塁手に転向した小倉は、1年の夏前には練習試合に抜擢されるなど、素質を高く評価されていた。秋の新チームではベンチ入りを果たし、チームは東京都大会で優勝を飾った。だが、小倉は左肩に脱臼グセがあり、明治神宮大会ではベンチ入りから漏れ、翌春のセンバツでも背番号をもらえなかった。

 2年になると、今度は右肩を痛めるなどツキもなく、最後の3年夏は背番号13だった。

「先発全員安打でコールド勝ちした初戦、控えの僕も代打で使ってもらいました。『ここで一発......』と思っていたらデッドボール(笑)。バットを叩きつけてマウンドに向かっていきました。当時のチームメイトからは『おまえが高校野球の監督なんてわかんねぇよなぁ』って」

 高校卒業後、日大に進んだ小倉だが、野球をすっぱりと辞め、学生生活をエンジョイしようと考えていた。ところがその矢先、日大三でコーチを務め、秋から監督に内定していた小枝守から声をかけられた。

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