部員4人→甲子園常連校へ。帝京・前田監督が「名将」と呼ばれるまで (2ページ目)

  • 楊順行●文 text by Yo Nobuyuki
  • photo by Ohtomo Yoshiyuki

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 ベンチ入りできない前田は、得点板を入れ替えるスコアボード係など、雑用がおもな仕事だった。4年春も合宿に行く主力メンバーから外れ、居残り組となった。もともと居残り組は人数も少なく、さらに帰省者もいたりして、満足に練習ができない。そこで前田は「自分の練習も兼ねて、帝京高校の練習の手伝いに行きたい」と監督に申し出た。それがのちに指導者となる始まりだった。

 その頃の東京の高校野球は、日大勢の天下だった。1969年夏から74年春まで10季連続で日大一高、日大三高、日大桜丘のいずれかが甲子園に出場し、1972年のセンバツは日大三高と日大桜丘で優勝を争った。

 帝京といえば、1968年夏のベスト4が目立つ程度。大学で控えの前田にさえ、とても甲子園を狙うレベルには見えなかった。それでも前田は必死に技術を伝え、バッティング投手をこなし、高校生と親身に向き合った。

 一緒に汗まみれになって体を動かせば自分の練習にもなる。大学がある八王子から高校のある十条まで、電車を乗り継いでいく"東京横断"もまったく苦にならなかった。

 やがて大学に戻ると、前田の熱心さが監督の耳に入り、4年春に念願のベンチ入りを果たすことになる。居残り組からの異例の抜擢だった。

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