磐城高OBが思い出す2011年夏の高校野球福島県大会「ハードルは高かった」 (2ページ目)

  • 田口元義●文 text by Taguchi Genki
  • photo by Kyodo News

 震災直後、宗像は県内の野球部にアンケートを送った。「春の大会に参加できるか?」の質問には、ほとんどの高校が「非常に厳しい」「困難です」と回答した一方で、「夏は必ず開催してほしい」と願っていた。

 未曽有の大災害からの復興を目指す福島にとって、一番の障壁は福島第一原発事故によって飛散した放射性物質への対応と、それに起因する風評被害からの脱却だった。

 原発の所在地である大熊町や近隣の浪江町、南相馬市など避難指示区域の高校は、サテライト校として県内各地に散らばり、多くの家族が地元を離れていった。そんな困難な状況においても「夏の大会をやりたい」と指導者たちは望んでくれていたのである。

 宗像は胸が熱くなった。

「春の大会を中止にしてしまったので、『これで夏も開催できなかったら子どもたちがあまりにもかわいそうだ』と。ですから、『何が何でも、夏はやるんだ!』って強い気持ちで準備を進めましたが、ハードルはものすごく高かったです」

 夏の大会実現のために、クリアしなければならない最大のハードルこそ、放射性物質への対策だった。

 宗像が教鞭を執っていた福島商の教室でもすべての窓が閉められ、掃除では「埃が舞わないように」と、ほうきではなく紙製のモップで床を拭くなど、細心の注意が払われていた。

 そんな状況下で、高校生たちを屋外の球場で試合をさせるわけである。「やらせてあげたい!」などという、高野連理事長としての感情論だけで決められる問題ではない。そのことは十分理解していた。

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