磐城高OBが思い出す2011年夏の
高校野球福島県大会「ハードルは高かった」

  • 田口元義●文 text by Taguchi Genki
  • photo by Kyodo News

幻の21世紀枠校・磐城高校物語(後編)

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「準優勝メンバーなのに」

 周囲からそう思われないためにも、1971年夏の磐城高校(福島)の甲子園準優勝メンバーである宗像治(むなかた・おさむ)は、己を律し続ける必要があった。

夏に向けて再出発を切った磐城高校の選手たち夏に向けて再出発を切った磐城高校の選手たち 高校野球の監督としては、甲子園出場(1988年に福島北でセンバツ出場)という結果でそれを証明してみせた。福島県高野連理事長時代にも、東日本大震災、福島第一原発事故のあとの難局を乗り越えた。

「大変だった。本当に、あの年は......」

 宗像は姿勢を少し正し、そう呟いた。

 奇しくも2011年は、福島県高野連と持ち回りで担当する東北6県の代表理事長を兼務する年でもあった。

 鉄道や国道など、インフラが少しずつ復旧し始めた4月。東北6県の理事長が集まった会議で、宗像は福島と各地域の温度差をまざまざと思い知らされた。

 被災した福島と宮城は、真っ先に「春の県大会と東北大会はとてもじゃないができる状況じゃない」と主張する。岩手も被害が大きい沿岸部は同調してくれたが、最小限に抑えられた県内陸部、それに青森、秋田、山形は「できるかもしれない」と展望を示す。

 議論が平行線をたどるなか、宗像は「6県の足並みが揃わないようならば、東北大会はやるべきじゃない。ただし、県大会については各高野連の判断に任せます」と事態を収束させた。県大会を中止にしたのは、福島と宮城だけだった。

 躊躇なく決断できたのには理由があった。

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