甲子園で773球→投手生命に終止符。大野倫は強打者としてプロへ進んだ (5ページ目)

  • 広尾晃●文 text by Hiroo Koh
  • photo by Kyodo News

 大野は高校卒業後、大学進学を希望していた。

「夏の甲子園前は、プロのスカウトの方も来ていましたが、故障してからは来なくなりました。ただ、オリックスには打者として評価していただいていました。でも、ひじのリハビリもあったので、九州共立大に進学することにしました。1年春はリハビリしながらDHとして試合に出場し、秋から外野手になりました」

 大野は翌年2月には、最年少の日本代表メンバーとしてアジア選手権に参加した。3年になると、日米大学野球とユニバーシアードで日本代表に選ばれる。4年では主将となり、福岡六大学リーグ新記録となる通算18本塁打を放った。

 大学屈指の強打者となった大野は、1995年のドラフト会議で巨人から5位で指名された。ちなみに、その年のドラフトで巨人は、2位で日本生命の仁志敏久、3位で東洋大の清水隆行を指名した。

「当時の巨人の外野には松井秀喜がいましたが、僕は即戦力として期待されていました。しかし、結果的に同期の清水が先にブレイクして、僕は出遅れた。開幕ベンチ入りをしたり、スタメンで起用されたりすることもあったのですが......」

 また当時の巨人は、毎年のようにFAで大物選手が入団してきた。1994年に落合博満、95年は広沢克己、97年は清原和博、2000年には江藤智。また98年にはドラフト1位で高橋由伸が入団するなど選手層は厚く、レギュラーへの道は遠かった。

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