悲運のエース・大野倫。高校野球への思いを変えた名将・栽監督との出会い (5ページ目)

  • 広尾晃●文 text by Hiroo Koh

 しかし大野が1年生の1989年の夏は、沖縄大会の準決勝で興南に敗れ、甲子園出場はならなかった。

「その時、『沖縄水産って負けることがあるんだ』と驚いたのを覚えています。僕は1年生でしたがベンチ入りし、2回戦で1イニングだけ投げました。あとは見ているだけでしたから、経験を積ませるためのベンチ入りだったんですね」

 次期エースとして期待されていた大野だったが、新チームになると野手に転向した。

「制球に苦労して、いったん投手を離れて外野手に専念しました。走り込みや投球練習はしていましたが、試合ではほとんど投げませんでした。5番を打っていて、中距離打者で打率は残していましたね。1学年上に神谷善治さんという先輩がいて、身長は175センチほどで、球速も135キロぐらいでしたが、シュートとスライダーを両サイドに決めて、ほとんど打たれませんでした。2年の時は、先輩に甲子園まで連れていってもらった感じでしたね」

 この1990年の夏、沖縄水産は県勢として初めて甲子園の決勝に進出する。しかし、天理(奈良)に0対1で敗れ、悲願達成はならなかった。

 夏が終わり、新チームがスタートした。大野は最上級生となった。

「チームが負けた瞬間から、僕はエースになりました。いよいよ来たな、と思いました」

中編につづく

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