センバツ21世紀枠、平田高・植田監督の方針転換は「私立に勝つため」 (2ページ目)

  • 井上幸太●文 text by Inoue Kota
  • photo by Inoue Kota

 大学卒後、教員採用試験を突破し、島根へと戻った。江津工の監督、邇摩(にま)の部長をそれぞれ4年、松江北で監督を8年。江津工時代に秋4強、松江北時代には秋3位での中国大会出場を果たすなど、一定の結果は残していたが、依然として甲子園には距離があった。
 
 2012年に出雲へ異動し、指導者生活19年目に突入した2014年の春、不惑を超えたタイミングで、植田の心境に大きな変化が生まれた。

「その年に42歳なりました。教員になったのが24歳の時なので、定年までちょうど半分を過ぎたタイミング。仮に80歳まで生きられるとすると、残りの人生も約半分。そういった年齢を迎えて、『このままの指導でいいのだろうか。これで本当に甲子園に行けるのか』という思いが強くなっていったんです。もう一度自分の指導観を振り返らなければならないと」

 当時の植田は、「私立に負けない身体と打力に鍛え上げて勝つ」野球を目指していた。高校時代は中軸を打ち、主軸打者として活躍した大学時代は全国優勝。"スラッガー"として野球人生を過ごした植田にとって、ある種必然的なことだった。

 自身の年齢と勝ちあぐねていた日々に加えて、公立勢全体が苦戦を強いられていた県内の情勢も、野球観を省みるきっかけとなった。

「当時は、私立校の夏の甲子園出場が9年間続いている状況でした。決して選手の能力が低くない公立のチームもあるんですが、力勝負にこだわった結果、私立に跳ね返されている。その状況を見て、『私立とは違う野球をしないと勝てないのでは』という気持ちが強くなっていったんです」

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