甲子園で応援団長→大正大の快挙に貢献。大場駿太が才能開花で描く夢 (2ページ目)

  • 高木遊●文 text by Takagi Yu
  • photo by Takagi Yu

 当時の霞ヶ浦は、綾部翔(元DeNA)や安高颯希(あだか・さつき/桜美林大)ら投手層が厚く、大場は高校2年の6月に野手転向した。エースだった綾部の励ましなど、仲間にも恵まれ「捕手以外はすべてやりました」と奮闘したが、公式戦のベンチ入りは2年秋のみで、それ以外は"応援団長"としてスタンドで部員たちを束ねた。

 当時の大場について、高橋監督が振り返る。

「いいボールを投げていましたよ。人としても最高。でも、真面目すぎるというか、やさしすぎてね。自分から崩れてしまうことがあったから、"負けたら終わり"の公式戦では使えなかったんです」

 大学でも野球を続けたいという思いは漠然と持っていたが、それをはっきりとさせてくれたのは、アルプススタンドから見た仲間たちの勇姿だった。

「いずれにしても野球は辞められなかったとは思うのですが、同級生たちが甲子園でプレーしているのを見て、『自分も大学で頑張ろう』と決心できました」

 大場が大正大を選んだのは2つ上の先輩がいたこともあったが、3部リーグで優勝しながらも入れ替え戦で敗れ、なかなか2部に上がれないという状況が、あの1勝の壁を越えられずにいた霞ヶ浦と似ている気がしたからだ。

 大場のなかに「その壁を、今度は自分がグラウンドに立って、選手として越えたい」という思いが芽生えた。

 大学入学後は、再び投手に挑戦。大場の2年春から指揮を執る大内康至監督が当時の印象を語る。

「大場は投げ方が理想的ですし、縦回転でホップするような球質を持っていました。この子がいずれエースになるんだろうなと思いました」

 身長は175センチと決して大きくはないが、最速145キロのストレートと高速スライダーを武器としており、当時から「力を発揮さえすれば......」という状況だった。だが、高校時代からの「打たれ出したら止まらない」という悪癖は治らず、常に不安はつきまとった。

 チーム内でもっとも精力的に練習していた大黒一之(現・エイジェック)から「続けていたらいいことがあるから、最後まであきらめるなよ」と声をかけてもらうなど、大学でも仲間に恵まれて腐ることはなかったが、もどかしい日々が続いた。

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