悲劇じゃなく希望。スーパー小学生投手は6年後に野手で甲子園に出た (2ページ目)

  • 菊地高弘●文 text by Kikuchi Takahiro
  • photo by Ohtomo Yoshiyuki

 あれから6年が経ち、岡戸の名前を今夏の甲子園出場校のなかに見つけた。岡戸は聖光学院(福島)に進んでおり、背番号8をつけていた。

 背番号8というところに、いろいろと察するものがあった。8月12日、海星(長崎)との試合前に岡戸を訪ねると、6年前の取材のことを覚えていてくれた。

「たしか球場のスタンドでお話ししたんですよね」

 当然ながら、あどけない少年の顔から凛々しい青年の顔つきになっていた。東京の強豪硬式クラブ・東京城南ボーイズに進んだ中学以降のことを岡戸に聞いてみた。

「中学1年の秋までは、2年生のチームでエース格として投げさせてもらっていたんです。でも、秋にヒジを痛めてしまって......」

 その日、岡戸は中学1年にして自己最速の125キロを計測した。だが、同時に左ヒジに痛みを覚えた。病院で診察を受けると、医師に「投げるスピードに体の成長が追いついていない」と説明された。

 とはいえ、ヒジの痛み自体は重症ではなく、1カ月もするとボールを投げられるようになった。だが、1カ月の空白が岡戸の体に微妙な狂いをもたらす。今までと同じように投げているつもりなのに、フォームが安定しない。投げるボールはしっくりこず、コントロールも乱れる。岡戸は迷路にさまよいこんだ。

「中3の最後の大会は、控えピッチャー兼控え野手という感じでした」

 そんな折、大枝茂明監督から聖光学院を紹介された。大枝監督はかつて江戸川南リトルシニアで監督を務め、松坂大輔(中日)を指導したことで知られている。「聖光のスタイルはお前に合っている」という大枝監督の言葉どおり、明るい声の飛び交う練習風景は岡戸の求めていたものだった。岡戸は聖光学院への進学を決めると同時に、ある決断をする。高校では野手一本に絞ったのだ。

「ピッチャーに未練はありませんでした。もうその頃には、感覚が別物になっていたので」

 そして迎えた高校3年夏、岡戸は背番号8をつけて甲子園にやってきた。聖光学院は13年連続甲子園出場を果たしているとはいえ、夏のベンチに入ったことのない岡戸にとっては甲子園デビューである。だがその日、先発メンバー表に岡戸の名前はなかった。

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