監督「ここにしかない魅力はある」。無念の敗戦でも貫いた上尾らしさ

  • 高木遊●文 text by Takagi Yu
  • photo by Takagi Yu

 夏の埼玉大会5回戦。上尾市民球場は外野席も開放されるほどの賑わいを見せた。多くの観客のお目当ては、地元の人気校・上尾高校だった。そんなホームとも言うべき雰囲気のなかで、上尾は大宮東から初回に4本の安打を絡めて幸先良く2点を先制。

 投げてもエース左腕の寺山大智が4回までひとりの走者も出さず、5回に四球こそ出したが6回二死まで無安打投球を続けた。

 しかし、なかなか追加点を奪えなかったことが仇となる。最終回、二死一塁と勝利まであと1アウト、しかも打者を2ストライクまで追い込んだが、そこからまさかの4連打を浴びて2対3と逆転サヨナラ負けを喫した。

ベンチ入りできなかったメンバーが一致団結した応援を見せる上尾のスタンドベンチ入りできなかったメンバーが一致団結した応援を見せる上尾のスタンド 試合後、スタンドにあいさつを終えると、選手たちは涙に暮れてロッカーへ引き上げていった。だが、上尾の監督を務める高野和樹(こうの・かずき)はベンチに戻ると、椅子に座り動かない。5分以上は座っていただろうか、長い沈黙の時間が流れた。旧知の連盟関係者が労いの言葉をかけるが、返事に正気はなかった。

 しばらくして取材陣の前に現れた高野は「3点目を取れなかったのがすべて」と切り出し、「とはいえ、こういうギリギリのところで勝ってきたチームなので、やはり最後が......悔しいですよね」と言葉を絞り出した。

 ただ、試合後に座り込んでいた理由を尋ねると、意外な答えが返ってきた。

「(こういう負け方でも)ウチの応援団がエール交換までしっかりやっているのかを確認していました。ベンチに入れなかった3年生たちを中心に、しっかりとやってくれていました」

 逆転負けの悔しさを押し殺しながらも、その部分での「やってきたことは間違いではなかった」という安堵の表情を見せた時、伝統校の矜持を感じた。

 埼玉の高校野球界で上尾が残してきた功績は大きい。甲子園出場は春夏合わせて6回。1963年春に甲子園初出場を果たすと、その後70年代中盤から80年代中盤にかけて隆盛を誇った。

 最後の甲子園から35年経った今でも、上尾の人気は根強く、上尾市民球場で公式戦が行なわれれば、平日の午前中であっても多くの観客で埋まる。

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