2019.08.04

佐々木朗希の登板回避にあらためて
思い出す大谷翔平を育てた監督の言葉

  • 佐々木亨●文text by Sasaki Toru
  • photo by Kyodo News

 結果的に、大谷は甲子園の舞台を2度経験したが、ピッチャーとして勝利をつかむことはなかった。スポーツの世界にたら・ればが禁物であることは百も承知しているが、もし大谷に1年時から投手として経験を積ませていれば、また違ったストーリーになっていたかもしれない。

 経験値を高めた大谷が、高校野球における勝てる投手になっていた可能性は大いにある。さらに言えば、それこそがチームにとって最善であり、佐々木監督の「求めるもの」だったかもしれない。ただ、大谷と過ごした3年間を振り返り、佐々木監督はこう言うのだ。

「大谷の将来を犠牲にすることだけは、絶対にあってはならないと思っていた」

 たとえば2011年の秋の東北大会でも、その思いは貫かれた。翌年のセンバツ出場がかかった大会。勝てばセンバツ当確のランプが灯る準決勝でのことだった。光星学院(現・八戸学院光星)を相手に、花巻東は8回表までに2点をリードしていた。だが、最後は逆転されて涙をのんだ。ちなみに、大谷はケガの影響もあって、ピッチングを封印していた。

 結局は、東北大会を制した光星学院が明治神宮大会でも優勝し、東北地区に神宮枠が与えられ、花巻東はセンバツに出場することになるのだが、東北大会準決勝の采配に対して、佐々木監督は周囲から厳しい言葉を浴びた。

「試合終盤に大谷が投げれば勝てるかもしれないというゲーム展開。敗れた直後に周りの方から『なんで大谷を投げさせなかったのか』と言われることがありました。でも、私は最後まで彼をマウンドに送らなかった。秋の時点ではピッチャーとして使わない。そのことはチームみんなで決めたことでもありましたし、私自身も投げさせてはいけないと思っていました。

 本音を言えば、センバツ出場が見えたあの場面で、ピッチャーとして使いたかったという思いは少しあります。あとで聞いた話ですが、大谷自身も投げたかったと……。でも、我慢しました。大谷のゴールはここではない。当時、大谷はまだ2年生でしたし、ここで壊すわけにはいかないと。何度も自分にそう言い聞かせていました」