広島新庄のエースは本格派右腕。「左でなければ」のジンクスを破るか (2ページ目)

  • 井上幸太●文 text by Inoue Kota
  • photo by Inoue Kota

 古川に電話をした際に「寮の雰囲気もいいぞ」と助言をもらい、進学を決めた。田口麗斗(巨人)、堀瑞輝(日本ハム)の左投手だけでなく、永川勝浩(広島)、六信慎吾(現・西濃運輸)ら本格派右腕も巣立ち、「投手王国」として名高い広島新庄だが、桑田にとってそこはあまり重要ではなかった。

「中学時代の後半からピッチャーをやらせてもらいましたが、2年まではキャッチャー。小学生の時はほとんど内野手だったので、(同じく内野を守っていた)古川さんに憧れていたのもそれが一番の理由です。なので、『絶対にピッチャーをやるぞ!』とはそこまで思っていなかったです」

 ポジションにこだわりはなく、「レギュラーを取って甲子園に行く」という思いの方が強かった。しかし多くの好投手を育成してきた、監督の迫田守昭(さこた・もりあき)は、桑田を投手として高く評価していた。迫田は言う。

「入学時から130キロぐらいの球速はあって、身体能力、筋力も高いものがありました。どこを守っても中心選手になるとは思いましたが、軸になる投手に育てたい、なってほしいと強く思っていましたね」

 素質を見込まれた桑田は1年春からベンチ入り。公式戦での登板を重ね、自信を深めていった。

 日々の練習のなかで迫田が繰り返し伝えてきたのが「投手はキレとコントロール」であること。その意図を迫田が説明する。

「投手指導において私が大切にしているのが、『投手はキレとコントロールを磨くべき』だということ。これは左右関係なく、すべての投手に当てはまると思っています。今はほとんどの高校がマシンで速球を打ち込む時代。球速が出ていてもコースが甘かったり、キレがないと簡単に打たれてしまいますから」

 フォームなどの技術面については「あまりあれこれ言わない」迫田の方針も、「自分の投げたい形を考えながらフォームをつくるタイプ」の桑田にマッチした。2年時には球速も140キロ中盤に到達し、地元・山口で開催された春の中国大会で優勝。故郷に錦を飾った。

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