青年監督がシティライト岡山で初快挙。
それでも「監督に向いてない」

  • 井上幸太●文 text by Inoue Kota
  • photo by Inoue Kota

「最初にお話をいただいたのが、2016年の都市対抗予選が終わった時。『さあ、秋に向けてやるぞ』と思っていたタイミングだったので、まさか監督をやるなんて思ってもいませんでした」

 当時は在籍7年目の29歳。十分に体が動く実感もあり、一度は断りを入れた。

「約3年間コーチを兼任させてもらって、指導のおもしろさを感じていましたが、それ以上に『何とか選手として都市対抗に出場したい』という思いが強かった。『僕以外に適役がいると思います』と、一度はお断りさせていただいたんです」

 それでも桐山の適正を見抜いていた首脳陣はあきらめなかった。何度も話し合いを重ね、最終的に監督就任を受諾。2016年秋から監督を務めることとなった。

 現役続行への思いを強く持っていたが、監督就任と同時に気持ちを切り替えたと話す。

「突然の打診でもあり、自分自身、直前の都市対抗予選が現役最後の試合になるとは思っていませんでした。それでも、監督になったタイミングで気持ちの切り替えはできましたし、今回都市対抗出場を決めてくれて、会社と選手たちには感謝しかありません」

 東海大時代もベンチ入りメンバーとして2度の全国大会出場を経験。今回監督として社会人野球でも全国大会に臨むが、桐山にはひとつの心残りがある。それが、開星高(島根)3年の夏だ。桐山が主将、エース、中軸を任されていた当時の開星は優勝候補筆頭に挙げられていたが、準決勝で敗れ、甲子園出場は叶わなかった。

「あの年、絶対に甲子園に行なければならなかったと、今でも思っています。大会期間中だけでなく、それまでのところでも、主将としてもっとできることがあったんじゃないか......と悔いがずっと残っています」

 高校時代の恩師である野々村直通には、都市対抗出場が決まった後、電話で報告をしたという。

「野々村先生に報告した時に『ようがんばったなあ』と言っていただけて、すごくうれしかったですね。多くの同級生が高校で野球を終えるなか、縁があって今でも野球に携わることができている。あの夏を取り戻すことはできないですけど、自分が野球に関わっていることを喜んでくれている高校時代の仲間がいることは励みになりますね」

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