外務省から高校野球の監督へ。名将に学んだ指導で夏の神奈川に挑む (2ページ目)

  • 清水岳志●文 text by Shimizu Takeshi
  • photo by Sportiva

 桑田真澄、清原和博らと同じ"KK世代"のひとりとして甲子園を目指したが、2年夏にベスト8、3年夏は1勝に終わり、高校野球生活を終えた。

 社会に出てからの野球は、外務省内のチームに所属して草野球を楽しむ程度だったが、それでも物足りなさを感じたことはなく、このまま時間が過ぎていくはずだった。

 だが、ある元プロ野球選手との出会いが、平林の人生のベクトルを大きく変えることになる。

 大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)や阪神タイガースなどで活躍した長崎慶一氏が経営する焼肉屋に偶然行き、やがて懇意になる。そして長崎が中学生のシニアチームの監督になると、「コーチにならないか」と誘われ快諾。

 そこで子どもの頃に刷り込まれた記憶が蘇る。高校野球の監督がしたい。そのためには高校の教師になるしかない。平林は中央大の聴講生となり、日大の教職の通信課程を履修した。

 一方で、野球の勉強を積むべく、いろんな人を訪ね歩いた。思い立ったらすぐに動くという平林の好奇心旺盛な性格が大いに発揮されていく。

 まず、知人のすすめで日大野球部の門を叩いた。当時の監督である鈴木博識(ひろし/現・鹿島学園監督)は「気軽に来いよ」と快く受け入れてくれた。当時の日大には松坂世代の村田修一(現・巨人コーチ)や館山昌平(現・ヤクルト)など、錚々たるメンバーが在籍していた。仕事が休みの週末にグラウンドに行き、一緒に走ったり、ノックの手伝いをした。

 また日大の部員の中には、PL学園の元監督である中村順司の息子や、明徳義塾捕手だった井上登志弘がいた。「名将と呼ばれる方に野球を教えてもらいたい。こんなチャンスを逃す手はないですね」と言って、中村や明徳義塾の監督である馬淵史郎と会う橋渡しをしてもらった。

 ただの公務員がアマチュア球界の重鎮たちに会いに行き、野球を教えてもらう。その探究心には驚かされる。ちなみに、これらは高校野球の監督になるどころか、教師にもまだなっていない時の話である。

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