沖水21年ぶり甲子園へ。指揮官が断言「打倒・興南への秘策はある」 (2ページ目)

  • 石田雄太●文 text by Ishida Yuta
  • photo by Ohtomo Yoshiyuki

 しかも上原は中部商の監督を8年務めたあと、母校の糸満へ移り、そこでも2度、甲子園出場を果たす。こと沖縄県内では抜きん出た勝率を誇り、甲子園に出たことのなかった中部商、糸満をあっという間に甲子園へ導いた手腕。その原点は、栽野球をベースに作り上げた上原野球があったからだった。

「思えば、中学野球から入ったことが大きかったのかもしれません。軟式の戦術というのがありましてね。三塁ランナーを走らせて打つとか、セーフティ・スクイズも僕が高校の監督になった頃にはまだ一般的ではなかった。そういう機動力を使った、オーソドックスじゃない野球を沖縄の高校野球では僕がいち早く実践したということはあったと思います。それに加えて、甲子園へ行くために必要な"何か"があったから、結果が出せたんでしょう。その"何か"というのは、僕はニーズに合った方法をその学校、学校で仕組んでいくことだと思っています。子どもたちが何を望んでいるのか、親御さんは何を期待しているのか。それから地域性を考える。

 宜野湾における中部商の存在と、糸満における糸満高校の存在は、まったく違います。野球を中心に考えることができた中部商を甲子園へ連れていくやり方は、大学へ進学を希望する選手が多い糸満では通用しません。だから糸満では子どもたちに自分の意志で野球に取り組ませるために、ミーティングを重視しました。そこで彼らに語り掛けて、やるべきことを理解してもらって、やる気に火をつける。自らの意志で出した成果に対しては大袈裟なくらい評価して、やると言ったのにやらなかったら烈火のごとく叱り飛ばす。限られた時間の中で野球と勉強のけじめをつけさせる。それが糸満ではうまくいきました。だから、沖縄水産には沖縄水産なりのやり方があるんだと考えています」

2007年、栽監督が65歳で急逝し、求心力を失った沖縄水産は、弱体化した。2016年、上原が沖縄水産に赴任してきた時、部員は20人。3年生が7人、2年生が13人、新入生はまだゼロ。外野の芝は伸び放題でボコボコ、内野の土はひび割れている。

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