沖水の栽弘義から学んだ上原忠。やがてふたりはライバル関係となった (3ページ目)

  • 石田雄太●文 text by Ishida Yuta
  • photo by Kyodo News

「いやいや、ライバルというレベルじゃありませんよ。甲子園で27勝もした栽先生と、中体連から上がったばかりのクソガキじゃ、相手にもされませんからね。ただ、中部商に行って役に立ったのは、沖縄中の中学の野球部の顧問の先生をすべて知っていたということです。一番の選手たちは栽先生のところへ行くんですけど、そこへ割って入って、違う視点から見たいい選手たちに入学してもらおうと動きました。中部商に行って最初の3年間は部長でしたが、その間、あちこちの中学校を回って、かなりいい選手たちに来てもらうことができたんです」

 2002年、ついに夢だった高校野球の監督となった上原は、中部商を率いていきなり旋風を巻き起こす。新人監督ながら、中学野球での実績は十分な上、部長として声を懸けて獲得した有力な中学生たちでつくり上げたチームは地力があった。エースの糸数敬作(のちにファイターズ)を擁した中部商は準々決勝で嘉手納を、準決勝で沖縄尚学を下し、なんと決勝で、栽監督率いる沖縄水産と対戦することになったのである――。

(後編に続く)

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