栽弘義と上原忠、名監督同士の出会い。沖水が21年ぶり甲子園へ好発進 (3ページ目)

  • 石田雄太●文 text by Ishida Yuta
  • photo by Sportiva

 糸満生まれで、糸満高校に通って野球をやっていた上原にとって、同郷で糸満高校の先輩でもある20歳上の栽監督は、いわば「地域のおっちゃん」(上原)だった。そんなおっちゃんが豊見城から沖縄水産へ移ってもなお、テレビのなかで県外の有名な高校をバッタバッタとなぎ倒していく。上原の脳裏には、子どもの頃に豊見城で観た練習中の栽監督の姿が今でも焼き付いている。

「威厳があって、目つきが鋭い。しかも栽先生は選手のことをボロクソに罵(ののし)るんです。声の調子も言葉も厳しくて......でもね、その奥に優しさを感じるんですよ。糸満って漁師町ですから言葉はぶっきらぼうです。だって、サメがそこにいて生きるか死ぬかの場面で『キミ、危ないよ』なんて言ってられないでしょ。だから短い言葉で、どぎつく言い合う。しかも、人を褒めるということをしません。褒められると疎遠な感じがするんです。だから悪く言われて、悪く言い返して、そのうち絆が深まって、親しくなる(笑)。栽先生はまさにそういう人でした」

 栽監督に憧れて、高校野球の監督になろうと決意した上原は、琉球大学に進んで沖縄の中学、高校の体育教師の資格を取った。そして採用試験に合格し、夢への第一歩を踏み出すことになる。しかし、順風満帆だったはずの上原にはこの直後、まさかの悪夢が待ち受けていた。

(中編に続く)

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