2019.07.02

栽弘義と上原忠、名監督同士の出会い。
沖水が21年ぶり甲子園へ好発進

  • 石田雄太●文 text by Ishida Yuta
  • photo by Sportiva

 そんな栽監督に魅せられたのは、野球をやる中学生だけではなかった。当時、沖水と同じ本島南部の与那原中で軟式野球部の監督をしていた上原もまた、栽監督に魅せられたひとりだ。

「僕は小学校、中学校と野球をやってきて、もっとも感銘を受けたのは自分でやる野球ではなく、観る高校野球でした。僕が小学校の時に強かったのが豊見城高校で、栽先生が監督です。甲子園で豊見城が東海大相模にサヨナラ負けした時は、もう泣き崩れましたね」

1975年の春、センバツの準々決勝。

 初出場の豊見城は、エースの赤嶺賢勇(のちにジャイアンツ)の力投で、優勝候補の筆頭だった東海大相模を相手に1-0とリードして9回裏を迎えていた。ここで赤嶺は"甲子園のアイドル"原辰徳を三振に斬って取り、ツーアウト、ランナーなし。しかし東海大相模はここから4連打で試合をひっくり返し、豊見城はサヨナラ負けを喫してしまう。上原は当時をこう振り返った。

「あの頃は、沖縄県民すべてを代表するものが高校野球だったと思います。戦争だけじゃなく、いろんな意味で虐(しいた)げられてきた沖縄は長い間、雑草のように生き延びてきました。このあたり(沖水のある糸満市)も、家が一軒もないくらい焼け野原になって、それでも落ち込んだり卑下することなく、たくましく、たくましく耐えてきたんです。その間、本土に対しては悔しい思いもいっぱいしてきているし、劣等感もある。何をやっても勝てない、追いつけない、追い越せない。

そんななか、高校野球で豊見城高校が全国大会のベスト8に入った。沖縄中の車が止まって、県民がすべてブラウン管(のテレビ)にかじりついていました。栽監督が野球で沖縄県民に自信を持たせてくれたんです。沖縄の人でも頑張れば本土の人たちに近づいて、追い越せる可能性があるんだということを教えられた。本当に感動して、甲子園から帰ってきた豊見城の練習を観に行ったんです。カッコよかったですねぇ。甲子園に出た球児たちよりも、栽先生がカッコよかったんです」