元プロのあの巨漢スラッガーが指導。山村学園は埼玉4強を脅かす存在 (2ページ目)

  • 大友良行●文 text by Ohtomo Yoshiyuki
  • photo by Ohtomo Yoshiyuki

 プロに入ってからの矢作は、ケガに振り回された。右手首の腱鞘炎と背筋痛に悩まされ、痛み止めを打ちながらの代打出場ばかりで、思うような結果が出なかった。そして4年目のシーズンを終えると、悩み抜いた末に自ら引退を決意した。

 引退後は不動産管理と人材派遣の仕事をしながら、2014年1月に学生野球資格回復制度の資格を取得。ふたりの小学生の息子が軟式少年野球チーム に入ったことで、監督に就任。弱小チームだったが、就任3年目に高円宮賜杯全日本学童軟式野球大会に出場するなど指導力を発揮。2005年には全国ベスト16まで勝ち進んだ。

 それがきっかけとなり、埼玉県戸田市美女木にY・S・B野球塾を開設。仕事を終えた夕方から小・中学生に野球を教えている。同時に硬式野球クラブチームの強豪・浦和リトルシニアのヘッドコーチも任され、2010年の選抜大会では上林誠知(現・ソフトバンク)を擁し、全国制覇を果たした。

 その頃、山村学園で監督を務める岡野泰崇が矢作のもとを訪ねてきた。面識はなく、年齢は10歳ほど岡野のほうが下だが、立教大野球部の先輩・後輩ということで意気投合。高校野球にとって必要なものや、指導法について意見を交換した。ふたりとも大学野球のすばらしさを知っているので、大学まで野球を続けていく選手たちのケアなど、方向性が一致。手弁当で週2回程度、臨時コーチとして山村学園を指導することになった。

 岡野は茨城県立緑岡高校から一浪して立教大に進み、二塁手として活躍。卒業後はさくら銀行(現・三井住友銀行)に進むも、1年で休部となり、心機一転、指導者を目指し社会科教員免許を取得して茨城県立岩井西高校(現・岩井高校)に赴任。その後、体育教員免許も取得し、水城高校(茨城)、東洋高校(東京)を経て、2010年に山村学園の体育教諭兼野球部監督となり、今年で10年目を迎えた。

 シートノックの時には、両手を上げて「いくぞー!」と大声で気合いを入れ、選手を鼓舞する。選手がフェンスに激突して転倒すると、ベンチから飛び出し、自ら背負って医務室に運ぶなど、気迫あふれる熱血監督として選手たちからも慕われている。

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