常総学院出身元プロ注目の強打者が
32歳でキックボクシングデビュー

  • 永田遼太郎●文・写真 text&photo by Nagata Ryotaro

 不躾と思いつつ、なぜそれほどの逸材が大学、社会人と進むなかでプロスカウトの目に留まらなかったのか。

「高校を卒業して、大学の時にヒジを手術したんです。1年の秋に最初の手術をして、2年の春に靱帯も切れちゃって......『もう野球はできないのかな』と、その時に思ったんです」

 それでも大学、社会人と野球は続けてきたが、ヒジの違和感がなくなることはなかった。リハビリをしても動かすことへの恐怖がつきまとい、高校時代にプロのスカウトから高く評価されたバッティングを見失ってしまった。

「自分は右投げ左打ちなので、バッティングで右ヒジを使うじゃないですか。ひねった時に痛みが出て......その痛みをかばうあまり、右手が使えなくなったんです。それが原因で、その後はまったく打てなくなりました」

 大学4年の時は指名打者として北東北大学野球連盟のベストナインに選出されたが、バッティングの感覚は高校時代とまったく違っていたと言う。社会人に進んでからもそれは変わらず、結局、野球を続けることを断念した。

「野球をやっている時は誰もがプロを目指してやっていると思うんです。でも、やっている本人しかからない部分もあると言いますか、(高校時代に)周りからはいろいろと評価をされてきたのかもしれないですけど、自分のなかでは『プロになれる』と思ったことは一度もなかったんです」

 プロ野球選手になりたい気持ちはもちろんあった。そのために友人や家族と過ごす時間を犠牲にしたし、大学入学時は茨城を離れて八戸に向かう新幹線のなかで涙を流した。

「そういうこと(高校や大学の寮生活)も含めて自分が好き好んで、その道を選べていたら、プロになれたのかもしれないですが......。そこが自分のなかで欠けていた部分だったし、弱さというか、それが後悔かと言われたら後悔かもしれないです。小さい頃からプロを目指して野球をやっていたから、プロに行けなかった悔しい気持ちはもちろんあります。でも、プロに行って失敗してしまった時のことを考えてしまう弱い自分もいました。もちろんそれも自分次第なのはわかっています。ただ、野球のほかに何ができるのかと言われたら本当に当時は何もなかったので......。『このまま野球だけ続けていっていいのか』とう迷いもあったし、先のことまで考えてしまう自分もいたんです。結局、自分自身が中途半端な人間だっただけの話なんですけどね」

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