沖学園の新米監督が生んだ「奇跡」。その陰にあった主将交代と56年会 (4ページ目)

  • 菊地高弘●文 text by Kikuchi Takahiro
  • 大友良行●写真 photo by Ohtomo Yoshiyuki

 夏の組み合わせは最悪だった。初戦は進学校の修猷館。以降は西日本短大付、九産大九産、東福岡、福岡大大濠......と次々と優勝候補とぶつかる激戦ブロック。だが、初戦を5対1でものにし、2戦目の西日本短大付を市川颯斗の満塁弾などで7対3と下すと、選手たちに変化が見えた。

「西短に勝って、自分たちはいけるんじゃないか。ここまできたら、甲子園に行くしかないだろ! という気持ちになりました」(三浦)

「内心、西短くらいで負けるだろう......と思っていたのが勝てたので、ここまできたからには甲子園に行こう! と思えました」(平川)

 大会前には最速145キロを誇る186センチの大型右腕・石橋幹が注目されていたが、故障からフォームを崩し、夏の大会は絶不調。それでも、背番号10の齊藤礼(らい)が精度の高いコントロールと、本人が「緊張したことがない」と語るほどの強心臓で才能が開花した。

 あれよあれよと勝ち進み、ノーシードからの決勝進出。決勝の九産大九州戦では自慢の強打線が研究されて沈黙するも、齊藤が安定感抜群の投球で完封。1対0で試合を終え、沖学園は「悲願校」の看板を下ろすことになった。

 自分の手柄にするつもりはない。それどころか、監督である自分でもいまだに実感がない。なぜ、沖学園は甲子園に出られたのか......と。

「なんで勝てたのか、僕でもわからないんです。あの苦しい時期にチームを見捨ててしまえば早かったのかもしれない。でも、博多の小生意気なヤツらに厳しいこと、うるさいことを地道にコツコツ言い続けてきたことが、甲子園という結果になったことで報われたような気がしました。この1年、本当に苦しかったですから......」

 複雑な要因が絡み合い、二度と再現できないような出来事が重なって、「奇跡」は生まれた。

 そして、鬼塚監督のくじけそうな気持ちを支えたのは、「56年会」の存在だった。

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