沖学園の新米監督が生んだ「奇跡」。
その陰にあった主将交代と56年会

  • 菊地高弘●文 text by Kikuchi Takahiro
  • 大友良行●写真 photo by Ohtomo Yoshiyuki

 指導者になる前は種子島でホテルマンをしていたこともあってか、愛嬌があり、周囲を笑いに巻き込む人柄が印象的だった。後に松山聖陵(愛媛)を甲子園へと導く荷川取(にかどり)秀明監督など、独特の雰囲気を発する指導者もいるなか、鬼塚監督には親しみやすさがあった。本人も「自分は監督という器じゃない。サポート役のほうが向いている」と感じていたという。

 その後は、毎年のように肩書きが変わった。「専門学校に勤めてる」「高校の野球部長になった」......そして、昨冬には「沖学園の監督になった」という。

 九州で名の知れた高校の野球部監督への就任。誰もがうらやむ状況に思えたが、鬼塚監督は複雑な笑みを見せていた。当時を鬼塚監督は「なんでこんなにうまくいかんのやろうと思っていました」と振り返る。

 2016年4月より沖学園の部長を務めていた鬼塚監督は、2017年夏の大会後に監督に就任する。前任者がチーム事情のため退任したからだった。

 鬼塚監督にとっても、前任者は自分を部長として呼んでくれた恩人である。礼儀や生活面まで選手たちを厳しく指導してきた前任者がいたからこそ、沖学園の野球部はいい方向に向かっていたはずだった。だが、鬼塚監督が就任したことで、チーム内には不満因子が渦巻いた。とても一枚岩とは言えない状況が長く続いた。

「どうやったら選手がやる気になるのか? 俺の指導力のなさなのか、カリスマ性がないから言うことを聞いてくれないのか。葛藤して、試行錯誤しながらやっていました」

 とくに目に余ったのは、主将を務めていた正捕手の平川夏毅(なつき)だった。能力は高い選手なのだが、鬼塚監督の目には平川のプレーが自分本位に映った。

「自分が打てなかったり、守備でミスが出ると『プツッ』と気持ちが切れるのがわかるんです。自分に関係のないことはやらないし、キャプテンといっても監督の言葉を選手に伝書鳩のように伝えるだけ。キャプテンがそれでは勝てないと思いました」

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