悪夢の落球をした開星のセンターは、甲子園で「一生のテーマ」をもらった (3ページ目)

  • 井上幸太●文 text by Inoue Kota
  • photo by Kyodo News

 中学時代の先輩の多くが主力として活躍していたこともあり、本田も自然な流れで開星に進学。入学後、同校の"名物"ともいえるウエイトトレーニングに取り組んだことで、大きな進化を遂げる。

「ウエイトで体ができてくるにつれて、打球が変わっていきました。特に1年の冬からセンバツにかけては、自分でも『レベルが二段階くらい上がった』と感じたぐらいで」

 今までは快心のスイングでもフェンスに届かなかった打球が、軽々とフェンスを越えていく。打撃練習で放つ打球に自分自身も驚いた。

 チームが4強入りした1年秋の中国大会ではベンチ外だったが、冬場の成長を評価され、センバツで公式戦初となるメンバー入りを果たす。大会直前の好調を買われ、センバツの2試合にスタメン出場した。 

 2年秋からは不動のレギュラーとなり、主に「3番・センター」で出場。チームは秋の島根大会、中国大会を立て続けに制覇し、翌2010年のセンバツ出場を決めた。

 当時の開星は、エース・白根、1番を打つ糸原健斗(阪神)の投打の柱だけでなく、脇を固める選手にも力があり、「優勝候補の一角」との声も少なくなかった。しかしながら、センバツでは21世紀枠出場の向陽(和歌山)の前に初戦敗退。野々村直通監督が「末代までの恥」と発言したことが波紋を呼んだ試合だ。

 センバツ終了後には、監督交代を余儀なくされる。「お前ら、野球辞めちまえ!」と罵声を浴びせる人物がグラウンドに表れ、満足に練習できない時期もあったが、高いチーム力は揺るがなかった。

「自分たちの不甲斐なさで監督に迷惑をかけてしまった......と落ち込んでいましたが、下を向いていても仕方がない。とにかく、やれることをひとつでも多くやろうと切り替えて練習していました」

 監督交代騒動の直後に行なわれた春の島根大会は4強止まりだったものの、春夏連続出場がかかった夏は見事優勝。5試合を戦い、失点はわずかに1。バックも無失策で守り抜いた。

 同校史上初となる春夏連続出場を果たし、「今度こそ甲子園で勝つ」と意気込んで臨んだ仙台育英との初戦は、互いに得点を奪い合うシーソーゲームとなる。

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