甲子園のスラッガーたちは、なぜ1年生・荒木大輔を打てなかったのか (3ページ目)

  • 元永知宏●取材・文 text by Motonaga Tomohiro
  • 岡沢克郎●写真 photo by Okazawa Katsuro

 東東京大会の王者として甲子園に進んだ早実だったが、ここでも騒がれることはなかった。センバツ優勝の高知商業(高知)、プロ注目のサウスポー・愛甲猛がいる横浜(神奈川)、前年に春夏連覇を果たした箕島(和歌山)などが優勝候補に挙げられていた。

 早実の初戦の相手は強打の北陽(大阪)。49の出場校のなかで地方予選の最高打率をマークしていた強力打線を、荒木は1安打に抑えて勝利した。これが伝説の始まりだった。

 甲子園に行ってから、突然、大輔がすごいピッチャーになったわけではありません。
いきなりストレートが5キロも10キロも速くなったわけでもない。球種もストレートとカーブだけ。北陽打線は強力だったから、普通なら、ストレートもカーブも外角低めに投げようとするでしょう。でも、大会で一番打率のいいチームに対してそのやり方が通用するとは思えなかった。

 当時の高校野球には打率5割を超える選手がたくさんいましたが、ピッチャーがアウトコースを狙って真ん中に入ったボールを打つことが多かったように思います。インコースの際どいコースを打つ技術を持ったバッターは少なかった。大輔のボールはナチュラルにシュートしていたので、右バッターのインコースに投げさせました。ストレートがシュート回転するのはよくないと言われていたんですが、それを逆手にとった形ですね。

 大輔は度胸があってコントロールもいいから、インコースを投げることを怖がらない。スピード自体は速くなかったので、バッターが打ち気でくる。でも、低めのボールは落ちるし、高めのボールはシュッと伸びる。詰まった打球は内野ゴロになりました。北陽戦は27アウトのうち、内野ゴロは16本、セカンドゴロが6本ですか。二塁手の小沢章一(のりかず)が守備位置を変えながらうまく守ってくれました。当時は今ほど左バッターが多くなかったこともあって、この配球がはまりました。

 基本的にはインコースのストレートと外角低めのカーブ。バッターが強振しそうなときにはインコース、コツコツ当ててくるときには外角にカーブを投げさせました。決勝戦までこのパターンです。球数が100球前後で済んだのは、大輔のコントロールがよかったから。ストライクゾーン近くのボールでもかなり打ち取っているはずです。

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