27年前のパ・リーグ首位打者が、大学2部に沈む母校復活を託された (2ページ目)

  • 菊地高弘●文・写真 text&photo by Kikuchi Takahiro

 この年、パ・リーグの規定打席到達者で打率3割を超えたのはわずか5人しかいなかった。松永浩美(オリックス)、白井一幸(日本ハム)、佐々木誠(ダイエー)、ブーマー(オリックス)、そうそうたる面々にレギュラー1年目の平井が紛れ込む。そして、最後は球界を代表するスイッチヒッターの松永との一騎打ちで、平井は首位打者争いの渦中に飲み込まれていった。

 先に全日程を終了したのは松永だった。松永の最終的な打率は.3140。そして平井は残り3試合というところで打率.3162と松永をわずかに上回っていた。平井はこの時点で年間400打席に立っており、当時のシーズン規定打席(403)まで残り3打席に迫っていた。この3打席すべてに凡退すると松永の打率を下回ってしまう。

 平井監督は当時をこのように振り返る。

「マスコミに騒がれるまでは誰も気づきもしませんでしたが、ここまでくると金田監督をはじめ、みんなの『平井に首位打者を獲らせよう!』という雰囲気を感じましたね」

 しかし、決着は思わぬ形でいた。運命の一戦、初回に1番・西村徳文が出塁すると、2番の平井が送りバントを決める。この瞬間、残り2打席で平井が凡退しても打率は.3144となり、松永を下回ることはなくなった。つまり、送りバントを決めた瞬間に平井の首位打者は決まったのだ。

 松永がシーズン130試合568打席に出場したのに対し、平井は110試合403打席。年間111安打でのタイトル獲得に批判の声もあった。しかし、平井は「イヤな思いをしたことはそんなになかったですね」と振り返る。

 翌92年以降、平井の成績は低迷する。本人としては「腰痛などケガが多かった」と語るが、当時は平井のことを一度首位打者になっただけの「一発屋」と揶揄(やゆ)する声もあった。

 しかし、98年に平井は再び輝きを取り戻す。前半戦から安打を量産し、高打率をキープした。

「近藤昭仁監督に1番打者として使ってもらったのがよかったんじゃないですかね。1番打者は『よーいドン!』で気楽に打席に立てて、性に合っていたような気がします。当時はそこまで考えていませんでしたが(笑)」

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