なんとPL学園野球部にまだ逸材がいた。凄腕のキャッチャーは何者か (4ページ目)

  • 菊地高弘●文・写真 text&photo by Kikuchi Takahiro

 2013年2月に硬式野球部の2年生が1年生に部内暴力を働く不祥事があり、当時の監督が辞任。後任は野球経験のない校長が就任した。出場停止処分が明けた後、チームは選手同士でサインを出し、継投のタイミングは綿密な打ち合わせをした上で主将の中川圭太(現・東洋大)が決めていた。

 選手自らが考え、戦略を立てるチーム運営は大きなハンデに思えたが、それでもチームは秋、夏ともに激戦の大阪で準優勝と大健闘を見せた。斉藤監督は「これだ!」と思ったのだという。

「グラウンドに立つのは生徒。野球をするのも生徒ですから。選手にはグラウンドで迷わずにプレーしてほしいんです。私は気持ちの持ち方を伝えてあげたい。最初は不安もありましたが、今は『自分は第一マネージャーなんだ』と割り切っています。選手たちも『監督は相曽、心の監督は斉藤先生』と思っているはずです」

 事実上の「相曽プレーイングマネージャー」体制で戦った昨夏は、大阪を制して4年ぶりに全国大会へと出場した。相曽は「個人としてのこだわりはありません」と語り、ベクトルは常にチームに向いている。

「夏は明石で全国制覇したい」

 その思いが相曽の頭を支配している。

 それでも、聞かずにはいられなかった。高校を卒業したらどうするのか、と。硬式野球をする予定はないのかと。

「今のところ、勉強して大学に行こうと考えています。野球は続けたいですけど硬式は......(笑)。大学のレベルによりますかね。バリバリやっているところは厳しいと思いますし、ナアナアでやっているところもどうかなぁと思うので......(笑)」

 幼少期は「夢はプロ野球選手」と語ることもあったが、今は「現実的ではないので」と笑う。一方で斉藤監督は、「いずれはPLに教員として戻ってきて、監督をやってもらいたい」と希望を口にする。

 PL学園最後の逸材――。相曽のことを安直にそう呼ぶことはやめておこう。PL学園の軟式野球部が存在する限り、情熱を持って教え、伝えていく者がいる限り、その灯が途絶えることはないはずだ。

 夏の明石で、PL学園のユニフォームを身にまとった選手たちが躍動する姿を楽しみにしたい。

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