ライバルが見た荒木大輔の早実は
「何かに守られているように強かった」

  • 元永知宏●取材・文 text by Motonaga Tomohiro
  • 岡沢克郎●写真 photo by Okazawa Katsuro

 そして、再び早実と対戦することになったのは、1981年の秋季東京大会の決勝。試合は最後に逆転負けを喫してしまいましたが、9回ツーアウトまで僕たちがリードしていたんです。

 大輔が1年生のときは、ストレートがナチュラルにシュートしていて打ちにくかった。でも、その試合ではストレートが"いいボール"になって、バッターからすると嫌な感じが少なくなっていました。「まとまったピッチャーになった」という印象ですね。そのころには、「かなわない相手」というイメージはだいぶ薄れていました。
 
 1981年秋の東京大会で準優勝に終わった二松学舎だが、早実とともに1982年春のセンバツに選ばれて出場する。エースの市原は初戦の長野(長野)戦で6安打完封勝利。その後も鹿児島商工(鹿児島・現樟南)、郡山(奈良)、中京(愛知・現中京大中京)など強豪を下して決勝に進んだ。その決勝ではPL学園(大阪)に2-15で大敗したものの、見事な準優勝を飾った。

 1982年春のセンバツを戦う僕たちの目標は、甲子園で勝つことではなく、「早実より先に負けないこと」でした。結果として、僕たちは準々決勝で敗退した早実よりもいい成績を残せたんですが、「東京で勝ち上がったチームなら甲子園でも上位に行けるだろう」という余裕のようなものがあったからかもしれません。

 それほどに、早実が当時の東京のレベルを引き上げてくれたことは間違いない。でも、東京ではあんなに強かった彼らが、甲子園では優勝できなかった。東京での彼らの強さを知る僕たちからすると、それが不思議で仕方がないんです。

 1981年の秋季東京大会では、二松学舎は9回ツーアウトからひっくり返されて、日大二も修徳も最後の最後まで彼らを追いつめながら勝てなかった。大輔は"手も足も出ない"ボールを投げるピッチャーではなく、野手も他を圧倒するほどの力があったわけではない。僕も1年生のときに感じたような差は埋まったように思っていたけど、結局は早実に勝つことができなかった。

3 / 6

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る